1階ベランダに面した部屋はかつての大食堂だが、現在はレストラン「ラ・メゾン・キオイ」のダイニングルームとして使用されている。この部屋の暖炉や壁面などに見られるジャコビアン様式の太い“ねじり柱”は、このほかにも玄関の広間や階段の手すりなど邸内の各所に共通しているモチーフで、重厚な英国調の雰囲気を演出している。
1階2階の撞球室、寝室、書斎などはそれぞれの部屋の用途、雰囲気を継承しながらレストランやパーティールームなどに改装されているが、創建時以来の家具、照明、床の寄木細工などの内装はそれぞれ見応え十分。宮邸としての格調の高さを実現しながら、家族の生活空間としてもあたたかさを感じるとても魅力的な邸宅だ。
1955年に「赤坂プリンスホテル」となった
李王家の人々がこの家で暮らしたのは昭和5(1930)年の竣工時から27(1952)年までのこと。昭和20(1945)年の敗戦により、李王家とこの邸宅は数奇な運命を辿ることになる。昭和22(1947)年の皇室典範の施行により、宮家であった11の親王家は皇籍離脱したが、同様に李王家も王族の身分を失い、巨額の財産税を課せられる。
李王は、当時の李承晩大統領に帰国を願い出たが叶わず。屋敷の半分を参議院議長公舎として貸し出し、一家は侍女室に暮らすという苦境に陥った。そして昭和27(1952)年には、創業者・堤康次郎が率いていた西武グループに建物を売却。かつての宮邸は、昭和30(1955)年に31室の客室を擁する赤坂プリンスホテルとなった。
赤坂プリンスホテルというと、赤坂見附の交差点から見えていた丹下健三設計の屏風を広げたような超高層建築を思い出す。その丹下建築が竣工したのは昭和58(1983)年のこと。新館竣工とともに、こちらの旧李王邸は赤坂プリンスホテル旧館となった。
紀尾井町の洋館を離れた李垠が、妻・方子とともに韓国に帰国したのは昭和38(1963)年だった。その7年後に李垠は亡くなるが、妻は韓国にとどまり平成元(1989)年に死去。朝鮮皇太子妃としての古式にのっとった準国葬で送られたという。
今も紀尾井町に残るこの館には、歴史の荒波に翻弄された人たちの一時期の優雅な暮らしがあった。その建物が当時の趣きをとどめていることは感慨深い。
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