「一つの中国」は歴代為政者が夢見た幻想共同体 「香港暴動」は長い中国の歴史を象徴している

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中国の人口分布の南北比は、14世紀を境に大きく転換します。それまでは一貫して南方・江南の人口が増え続けていました。長江流域の経済開発に伴う動きです。ところが、15世紀以降は一転して、北方・中原の比率が上がり始めるのです。南方が衰退して北方が発展したというわけではありません。そもそも南北という分け方の比重が小さくなってきたからです。

これは「14世紀の危機」に始まる中央アジア・遊牧世界のプレゼンス低下、およびそれと反比例した海洋世界の比重増大を示しています。とくに16世紀の大航海時代以降になると、ヨーロッパ・日本との貿易が中国の沿海地域を発展させました。

南北の差異がなくなったわけではないのですが、それ以上に海に近い東側ほど栄えて、西側の内陸ほど取り残される事態のほうが進展しました。つまり、南北より東西の格差が顕著になっていたのです。

この構図は、当時から現在までずっと続いています。東側ほど先進的で、西側ほど後進的だという状況は、例えば18世紀と現代とを比較しても、大きな差がみられないのです。

西欧の影響で「国民国家」を目指す

つまり大航海時代の影響で、中国は南北の違いに加えて東西格差も生まれ、空間的にいっそう多様化し、バラバラになったのです。また社会的な格差でみても、従来の「士」「庶」の二元的な構造に加え、両者の間にさまざまな資格・階層の人々が割り込むようになり、中国社会はますます多元化・複雑化しました。

ちなみに日本は、地域構造も社会構造も歴史的にみれば、非常に単一的均質的です。だから西洋近代に直面した際、国民国家の形成も容易でした。そういう日本人の感覚からみると、中国社会は想像を絶するほど複雑怪奇です。

日本の中だけをみていれば、日本は多様だといえるかもしれません。日本史の研究では、そういう議論も盛んです。しかし中国やアジア諸国の多元性に比べれば、物の数ではありません。

とくに17世紀以降、この問題はいよいよ顕在化してきます。言い換えるなら、モンゴルの撤退後、明朝以降の中国の歴史は、このバラバラな社会でいかに秩序を保って共存を図るかという、時々の政権による腐心の歴史でもあるということです。

明朝から中国の統治をバトンタッチした清朝の時代、とりわけ18世紀には、中国のみならず東アジア全域の統合・平和が成し遂げられたかのように見えました。清朝はひとまず多元共存の体制構築に成功したのです。

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