福岡からブラジルを伝える元ヤンキーの生き様 ウェブ版に移行したサンパウロ新聞の73年

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――現代では想像もつかない世界です。

1年かけて原始林を切り倒し、いざ農園を作ろうとした矢先、お父さんが交通事故で亡くなってしまいます。長男の半沢さんは、まだ20歳だったそうですが、文字通り何もない土地で家族を支えないといけなくなりました。

日本人移民の生きざまを残していく人が絶対に必要

――なんて過酷な……。

移民の人たちは本当にたくましく、人生がものすごく濃いんです。

アマゾン奥地にある日本人会館に置いてあった記録帳を資料として読んだ時に「無に帰す」という言葉が書かれていました。当時の移民には、日本の社会保障なんか一切ない時代。アマゾンの奥地でどんなに一生懸命頑張っても、日本にいる誰もその人のことを知らない。

死ぬと遠い異国の土となるだけ。そういう意味が込められていました。だから僕は、彼らの生きざまを残していく人が絶対に必要だと思っているんです。

積極的にブラジル移民の方々の話をする機会を作ってきた吉永さん(吉永さん提供)

僕は、現地で彼らと寝食をともにしながら、移民のご苦労と生きざまを本当に見てきた「最後の日本人」だと自負しています。その後、サンパウロ新聞に入ったのはたまたまですが、その生きざまを伝えていける仕事に巡り合えたと感じています。

――吉永さんは、どんな記事を書かれているのでしょうか。

入社した2004年からは社会部記者として、ブラジルの日系社会をメインに取材していました。日本の縮図のようなもので、総理大臣や厚生労働大臣にあたる役割の人もいるし、都道府県ごとに県人会もあります。そのなかのさまざまなニュースを追っていました。

記者は多くても7〜8名、少ない時には2人しかいませんでした。その体制で、新聞見開きを埋めないといけない。夕方5時に入稿しないといけないのに、3時半になってもトップ面が決まらず、慌てて記事を書かされるなんてこともざら。文章力は相当鍛えられましたね。

紙面では、アマゾンの日本人学校、民芸品を売っている日本人夫婦、南米で初めて日本人移民が建てたペルーにある最古のお寺、エクアドルのバナナ農園……。南米の移民の現状も伝えてきました。その後、2006年に福岡に戻り、現在に至ります。

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