福岡からブラジルを伝える元ヤンキーの生き様

ウェブ版に移行したサンパウロ新聞の73年

ちなみに、サンパウロ新聞があるミツト・ミズモト通りは、世界的に見て治安が悪いサンパウロ市のなかで、さらに5本の指に入るほど危険なところでした。

創業者の名前をとった「ミツト・ミズモト通り」にサンパウロ新聞社は位置している(写真:吉永さん提供)

サンパウロ新聞社ビルの隣のバーで飲んでいた時に強盗が入ってきて、目の前で警察との銃撃戦になったことがあります。その時は、間一髪助かったのですが、自分に向けて放たれた弾丸は記念として財布に入れていましたね。

どの記者もみんな、一度くらいはナイフかピストルで襲われていると思います。

――ご無事で本当によかったです……!

暴走族から少年院、そして南米で記者になるまで

――記者になるまでの経緯を教えてください。

僕は若い頃、かなりやんちゃで。中学校は、2年生で先生に「来ないでくれ」と言われてから、行っていません。

卒業後は1年遅れで定時制高校に入りましたが、暴走族にも入ったので、夜は授業に出ず、暴走活動にのめり込んでいたんです。結局、けんかで退学。その後、覚醒剤使用の容疑で捕まって、19歳で少年院に入りました。

――そこから、どのように南米につながるのでしょうか。

少年院で面会に来た父の「ブラジルに行けば、日本の学歴は何も関係ない。本当のリスタートができる。南米で人生勉強してこい」という一言でした。

父は大学生の時に、ブラジルのアマゾンに貨物船で渡った経験があり、移住を望んだものの、家業を継がねばならず戻ってきた人でした。僕を責めることなく、大学の学費代わりに、南米行きの航空券と滞在費を渡してくれました。

当時は、少年院を仮退院したばかりの保護観察中。そんなタイミングで海外に渡るのは、異例でしたね。保護司の先生に月2回手紙を書くという約束で、20歳で南米に渡りました。ただ、「正直行きたくなかった」というのが当時の心境です。

――南米ではどんな経験をしたのでしょうか。

はじめは父の知り合いを頼ってエクアドルへ渡り、その後はペルー、ブラジルを働きながら放浪しました。

半沢さん(写真・右から二番目)の写真は今もデスクに入れている(写真:吉永さん提供)

3年間の放浪生活のなかで、衝撃をうける出会いがたくさんありました。例えば、エクアドルでバナナ農園を経営する半沢勝さん。彼が両親や兄弟と一緒に南米に渡った1960年代、熱帯雨林地方はまさに原始林で、「緑の地獄」と呼ばれるほど過酷な場所でした。先住民と暮らしたり、灼熱(しゃくねつ)のなか胴回りが10メートルくらいの大木を手作業で切り倒したり、マラリアにかかってどんどん人が亡くなったり……。

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