福岡からブラジルを伝える元ヤンキーの生き様 ウェブ版に移行したサンパウロ新聞の73年
発行回数を減らすことも検討したものの、採算が合わず、やむなく紙面廃刊を決めました。現在は、社長と元記者などの有志で記事を作り、ウェブを通じて情報を発信しています。
日本語新聞などの情報が、彼らの大きな楽しみの一つ
――苦渋のご決断だったんですね。1946年の創刊当時、ブラジルではどんな存在だったのでしょうか。
立ち上げのきっかけは、第二次世界大戦です。戦前までは、現地のニュースを伝える日本語新聞がいくつかありました。ところが、第二次世界大戦でブラジルが連合国についたため、日本は敵国になり、日本語の本や新聞の発行が禁止されてしまった。当時の日本語新聞は、全て廃刊です。
しかし、当時の日本人移民のほとんどは、ポルトガル語の新聞が読めない。インターネットのある今とは違い、簡単に情報が入ってこない時代。戦争の結果すら分からず、ポルトガル語のニュースを読んで負けたと主張する「負け組」と、日本が勝ったことを信じる「勝ち組」の間で争いが起き、20人ほどの日本人が亡くなる事件も起きました。
そんななか、創業者・水本光任(みずもと・みつと)さんが「正しい情報を伝えないといけない」という思いから、日本語を禁止していたブラジル政府と交渉し、サンパウロ新聞を立ち上げたんです。
ちなみに、僕が初めて南米に行った1997年頃は、まだNHKなどの日本のテレビが見られない状況。日本語新聞などの情報が、彼らの大きな楽しみの一つでした。
――どのように記事を制作していたのでしょうか。
日本語の面が中心ですが、ポルトガル語の面もあり、紙面は合計8ページ。平日の週5日発行していました。
サンパウロ新聞の記者が独自記事を作るのは、1ページ分です。ブラジルのニュースは、現地紙「オ・エスタード・デ・サンパウロ」や週刊誌「veja(ヴェジャ)」などの記事を翻訳。日本のニュースは、提携している毎日新聞や時事通信から選び、政治からスポーツまで幅広く掲載していました。
ブラジル国土は日本の23.5倍と広大なため、現地在住の日本人記者5〜6名でブラジルの各都市に支局を作っていました。福岡支局は、日本国内でブラジルにまつわる出来事を取材しています。僕自身も2年に一回はブラジルに滞在し、取材しています。