施設入所後の約10年間は元気だった祖母も、94歳の誕生日を境に急に弱っていった。緊急入院することになった病名は、虚血性心不全(動脈硬化などにより冠動脈が狭くなったり閉塞したりして、心臓に血液を運べなくなる状態)。肺に水がたまり、ひどい呼吸苦に繰り返し襲われていた。
杉田は、日本看取り士会の柴田久美子会長の著書を参考に、祖母と呼吸を合わせて落ち着かせようと、試行錯誤を繰り返した。看取り士が終末期の人に行い、家族にも勧める「幸せに看取るための4つの作法」の1つだ。
「祖母がベッドから上半身を起こし、『ハァーハァーハァー』と肩で大きく息をするんです。私が祖母を抱きしめながら、意識的にゆっくりと息をしていると、祖母の荒い呼吸も次第に落ち着いてくる。それでベッドに横になると、また息苦しくて起き上がる。その壮絶な反復に直面すると私も涙が溢れてきたり、吐き気も催したりして、ひどく消耗させられました」
祖母と父親の間に生まれた葛藤
そもそも、杉田はなぜ祖母と親子同然で生きてこざるをえなかったのか。
杉田の両親は幼い頃に離婚。離婚後は父に引き取られたが、物心がつく前に地方で暮らす父方の祖父母に預けられた。父親が稼ぎ口を東京に求めたからだ。
幼少期はピアノや日本舞踊を習うなど裕福な暮らしだったが、杉田が7歳のときに祖父が急逝すると生活は一変。父親からの仕送りも不安定で、杉田は中学校へ通うためのバス代がなくて学校を休むことさえあった。
「でも祖母は、父への恨みつらみは一切口にしませんでした。一方で隣近所から3千円を借りたら5千円を返す人でしたから、貧しい暮らしの中でも周りからの信頼と、自身の矜持は失いませんでした」(杉田)
大正12年生まれで、戦争体験もある祖母は強かった。
東京で暮らす父親が一度、杉田を引き取りに来たことがある。祖母は隣近所の人たちを集めて、父親を杉田に会わせずに追い返した。その時は自分の存在がすでに祖母の生きる糧になっていたのかもしれない、と杉田は回想する。
「後で知ったことですが、父親は子どもの頃に母方の本家に養子に出されたことがあり、寂しい思いをしたようです。追い返されて以降、父親と祖母の関係は疎遠なものになっていきました」
裏を返せば、それが杉田と祖母が親子同然で生きてきた理由。実母の行方が長らくわからなかったせいもある。
緊急入院後の祖母の話に戻す。呼吸苦を抑えるために医療用麻薬モルヒネが投与されると、祖母の意識はときおり遠のくようになる。
「それでも祖母は浴衣の襟元や裾をこまめに整えたり、医師に気づくと目を閉じたまま両手を1cmほど上げて、感謝の気持ちを表す両手握手を求めたりするのを止めませんでした。その姿には圧倒されましたね」(杉田)
祖母は、杉田が子ともの頃から身繕いをつねに整えることと、周りへの感謝を忘れないことを、口を酸っぱくして説き続けたからだ。
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