村上ファンドはなぜ「廣済堂」に目をつけたのか 葬祭子会社「東京博善」の知られざる企業価値

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では、なぜ東京のみ民間運営の火葬場が集中しているのか。明治後半に全国で寺院や民間が運営する火葬場が相次いで自治体運営に転換する中、東京では東京博善が自治体に先駆けてほかの火葬場を統合したからのようだ。

東京博善の創業者は、文明開化真っ只中の1881年(明治14年)に牛鍋屋「いろは」を開店、後にチェーン展開させた実業家・木村荘平氏である。

『木村荘平君伝』(松永敏太郎著、1908年、私家版、以下「木村伝」)によれば、木村氏は京都伏見出身の商人で、幕末の鳥羽伏見の戦いの際、物資納入を通じて薩摩藩幹部との人脈を構築した。この人脈で維新後、政府から官営食肉処理場の払い下げを受けることに成功。牛肉の調達ルートを確保できたことが牛鍋屋のチェーン展開につながった。ちなみにチェーン20店舗の店長は全員木村氏と内縁関係にある女性たちで、子供30人は全員認知したという。

【2019年2月22日16時12分追記】初出時の記事で不適切な表現がありました。上記のように修正いたします。

60年間の僧侶経営を経て廣済堂傘下へ

木村伝によると、東京博善を創業したのは1887年4月。この前年に日本全国でコレラが大流行したため火葬場の需要が急増。木村氏は出資者を集めて「東京博善(株)」を設立、日暮里村に国内初の無臭気の火葬炉を作ったらしい。これが場所の移転や再編を経て現在の町屋斎場となったようだ。

現在の東京博善は、後の1921年(大正10年)4月に東京慈恵医科大学の初代学長で、貴族院議員でもあった金杉英五郎氏が設立したもので、木村氏が設立したものとは法人格が異なる。だが、設立時点で町屋、砂町、落合、代々幡の4カ所の斎場を事業所としていることから、町屋以外の3カ所はこの時までに旧東京博善に統合されたか、新会社設立時に統合されたものと見られる。

1926年には横浜の妙香寺住職で、日蓮宗大本山法華経寺貫主の宇都宮日綱氏が金杉氏に代わって社長に就任。以後1985年5月まで約60年間にわたって僧侶の社長が3代続いた。木村伝によると、この間に四ツ木、桐ヶ谷、堀ノ内の3斎場の運営会社を吸収合併する一方、砂町斎場を1965年に閉鎖して現在の6カ所体制になったらしい。

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