あの地方駅が「北アルプスの玄関口」になるまで 塩で栄えた信濃大町、登山客の誘致で脚光

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社長職から退いたものの、才賀は鉄道建設に対する知見が豊富だった。そうした知見を信濃鉄道に評価され、新体制後も相談役として経営をサポートする立場にとどまっている。

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才賀の後を任された今井五介は、製糸業で財を成した地元・片倉財閥の松本製糸所で所長を務めた重鎮だった。それだけに、信濃鉄道の再出発時には片倉財閥から支援を取り付けたほか、地元財界人も協力を惜しまなかった。

今井新体制になった信濃鉄道は、1915年に松本市(現・北松本)駅―信濃大町駅間を開業。最初の信濃大町駅は中心街から遠く離れていたために、翌年には今と同じ場所に新しい信濃大町駅を開設した。先につくられていた信濃大町駅は仏崎駅と改称したが、1917年に廃止されている。

塩の道の中継地という地位から転落した大町は、鉄道に衰退を食い止めることを託した。そして、町おこしの一環として北アルプス登山で観光客誘致に取り組む。

大町は日本アルプスの玄関口に

明治初期、イギリスから来日していたお雇い外国人のウィリアム・ゴーランドは信州を訪れて美しい山岳風景に魅了された。帰国後、ゴーランドはその風景を“日本アルプス”と雑誌に寄稿。ゴ―ランドの記事は評判を呼ぶ。大町は日本アルプスの玄関口として脚光を浴び、登山家に人気になっていく。

しかし、当時は登山というレジャーが一般的ではなく、愛好者の数は極めて少なかった。信濃鉄道は利用者増につなげるため、アルプス登山のノウハウを記したガイドブックを発行。北アルプスの雄大な風景を宣伝するとともに、初心者でも楽しめる登山の仕方を紹介。登山を奨励することで、需要の掘り起こしを図った。

また、信濃鉄道は大町駅から近い木崎湖にも着目。現在まで実施されている学術セミナー「信濃木崎夏期大学」(現・木崎夏期大学)が開講されると、講堂を寄付して運営をサポートした。

この学術セミナーには、内務大臣を務め鉄道にも造詣が深い後藤新平、後藤のブレーンとして活躍し後に文部大臣を務めた前田多門などが講師に名を連ねている。こうして、信濃大町駅は着々と観光地として発展していく。

他方、軽井沢や善光寺、白馬といった観光・リゾート地を抱える長野県は、大正末期頃から観光PRに力を入れるようになっていた。当時、鳥瞰図による観光マップづくりが流行しており、“大正広重”の異名をとる鳥瞰図師・吉田初三郎には多数の自治体・観光協会から制作依頼が舞い込んでいた。長野県観光協会も、吉田に鳥瞰図の制作を依頼する。

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