東急「田園都市線」と「田園調布」の関係は? 「都心への通勤」前提の街、高齢化でどうなる
東急電鉄は2012年に横浜市と「次世代郊外まちづくり」の推進に関する包括協定を結び、若い世代の減少や高齢化、コミュニティーの希薄化に対し暮らしやコミュニティーを重視した街づくりを進めようとしている。その際にモデル地区に選定されたのがたまプラーザ駅北口地区(美しが丘1丁目、2丁目、3丁目)だ。これは「元石川第一地区」の土地整理事業が行われたエリアと合致し、いわば多摩田園都市の「顔」とも言えるエリアだ。
一方でこうした取り組みが街にコミュニティーを生み出し、活性化につながるかどうかは課題が残る。
田園都市株式会社が発足した当初から掲げていた通り、多摩田園都市のような郊外住宅地は住民が都心部に通勤することを前提としており、街は「帰り、休む場所」として形成されている。こうした街では人々が日々の生活の中で顔を合わせる機会が生まれにくく、コミュニティー重視といっても住民同士の交流はなかなか進まないのが実情であり、共働き世帯ならなおさらだ。また、多摩田園都市は不動産価格の高さから若い世代にとってはハードルが高く、住民の世代交代が着実に進むかどうかも懸念の1つだ。
新たな田園都市像を描けるか
今年9月、東急は2019年9月をメドに鉄道事業を分社化することを発表した。本体は不動産事業が中心となるが、田園都市株式会社の鉄道部門が独立したという創業時の経緯を見れば先祖返りともいえる。
五島慶太は、1951年に社員に対して次のように発言している。「東急電鉄の前身である目蒲電鉄、東横電鉄は田園都市株式会社から生まれたものであり、したがって田園都市業は当社の古いのれんであり(中略)そこで社員全員が協力し、現在の不振を挽回し是非とも、昔の田園都市業に復元することをお願いする」。五島からすると、東急は田園都市業、すなわち住宅開発あってのものという認識だったわけだ。
田園都市株式会社を設立した渋沢栄一や息子の秀雄らは100年前、そして五島慶太は60年前に、従来の街づくりを超えた発想を田園都市に取り入れていた。鉄道事業分社化で新体制となる今後、東急は街の維持発展のために、人口減少・高齢化を見据えた新たな田園都市像を示すことが求められる。
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