東急「田園都市線」と「田園調布」の関係は? 「都心への通勤」前提の街、高齢化でどうなる

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1995年に地下化が完了した田園調布駅。地上に線路があった時の駅舎をシンボルとして、線路の上にあたる空間には複合施設「東急スクエアガーデンサイト」がある(筆者撮影)

東京城南地域や神奈川県川崎市・横浜市に路線を広げる東急電鉄。田園都市線や渋谷駅周辺など、沿線の不動産開発に注力してきた鉄道会社であることは多くの人々が知るところであろう。

東急のルーツは、実業家の渋沢栄一らが東京の郊外住宅地を開発するために設立した田園都市株式会社にさかのぼることができる。2018年は同社が設立されてちょうど100年の節目だった。田園調布や田園都市線沿線など、鉄道とともに発展してきた郊外住宅地だが、新たな課題も生まれつつある。

洗足から始まった「田園都市」

東急目黒線の洗足駅。駅前から伸びる「いちょう通り」にはカフェやパン屋などが並び、そして周囲にはゆったりした区画の住宅地が広がっている。ここが「洗足田園都市」として初めて田園都市株式会社が開発したエリアで、1922年から分譲された。

「田園都市(Garden City)」とはもともと、イギリスのエベネザー・ハワードが19世紀末に提唱した概念だ。ハワードは農村と都市の「いいとこ取り」を指向し、郊外に住宅・工業・農業の機能が隣接した街として「田園都市」の建設を主張した。この考えは1902年から造られたレッチワースという街に結実した。

洗足駅前の「いちょう通り」は田園都市株式会社による開発時から計画的に広い道として整備された(筆者撮影)

わが国に田園都市の考えが輸入されたのは早く、1907年には内務省地方局の有志が編集した書籍「田園都市」が刊行されている。同年は、阪急電鉄の創業者である小林一三がその前身である箕面有馬電気軌道を設立して鉄道経営に乗り出した年でもあり、同社は1910年から大阪の池田や箕面で住宅地開発を始めている。

関東地方でも急速な工業化に伴う都市部への人口集中などを受け、1910年代半ばに実業家の集まり「日本橋クラブ」のメンバーを中心として、理想的な住宅地を手がける会社設立の機運が生まれた。そして設立されたのが田園都市株式会社だ。

だが、イギリスの田園都市の発想は「住宅・工業・農業の機能が隣接した街」だったはずだ。それがなぜ、都心と鉄道で結ばれた郊外住宅地という姿になったのだろうか。

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