”ポスト・ゲイツ”の前途多難《特集マイクロソフト》
「マイクロソフト帝国」の創始者、ビル・ゲイツは1955年10月28日にシアトル屈指の名門の御曹司として生まれた。母のメアリー・ゲイツはシアトルの銀行家の娘で、全米規模の慈善団体ユナイテッドウェイの全国委員会の委員を務めた。同名の父はシアトルで有名な弁護士である。ビルはウィリアムの愛称で、ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世が正式の名前だ。
67年にゲイツはレイクサイドスクールに入学した。翌年、同校の母の会は寄付を集めて「ASR-33」というテレタイプを学校に導入する。これを使えば、遠方のセンターのコンピュータを動かせた。処理速度は極めて遅く、時間当たりの使用料も大変高かったものの、BASIC言語でプログラムを組むことができた。ゲイツはコンピュータを通じてポール・アレンという年長の少年と親友になり、高校生とは思えないような優秀なプログラマーに成長していった。
73年ゲイツはハーバード大学の数学科に進学する。講義にはあまり出席せず、ポーカーに日夜明け暮れていたという。74年12月、『ポピュラーエレクトロニクス』誌の新年号の表紙にMITS社の「オルテア8800」という世界初のミニコンピュータ組立キットの写真が載った。個人がコンピュータを所有できるマイコン革命の到来である。
アレンに誘われてゲイツはオルテア用BASICを書き始めた。独創的だったのは、2人とも見たことも触ったこともないのにオルテア用のBASICを書き上げたことだ。この秘密はアレンが書いたエミュレータにあり、これはオルテアのCPUであるインテル8080の動作をプログラム的に模擬するものである。
こうして書かれたBASICを持ってアレンはMITS社のあるニューメキシコ州アルバカーキに飛び、見たことも触ったこともないオルテア8800にテープをつなげた。驚くべきことに、ほぼ一発で動いてしまった。マイクロソフトBASICの最初の勝利の瞬間である。
こうして誕生したマイクロソフトBASICは破竹の快進撃を開始する。マイクロソフトの設立は75年。ゲイツは2年ほど逡巡するが77年2月にハーバード大学を中退し、マイクロコンピュータ業界に身を投じる。マイクロソフトは「どの机の上にも、どの家庭にも1台のパソコンを」というビジョンを掲げ、社員は夜も昼もない長時間のプログラム開発を行った。
2008年5月、ゲイツは日本での講演で以下のように述べている。
「パソコン市場の創生を助けるために日本のパートナーと初めて一緒に働くことになったのはおよそ30年前です。(アスキーの)西和彦さんがやってきて(NECの)『TK-80』というコンピュータキットを私に見せ、ソフトの面で一緒にやっていけるのではないか、パートナーを見つけられるのではないか、と言いました。実際にそれが縁でマイクロソフトは重要なパートナー数社を見つけることになったのです」
伝統的なプログラミングでは忌避されていたトリックをあえて多用したマイクロソフトBASICの威力は神話的であり、売り込みに絶大な手腕を発揮した西のカリスマ的な魅力も手伝って70年代後半、日本のメーカーは一斉にマイクロソフトへ殺到した。
マイクロソフトの収入の40%近くは日本から出ていると言われた時代もあった。マイクロソフトにとって日本は極めて忠実でおいしい市場であった。マイクロソフト製品が劣勢になると、ゲイツやスティーブ・バルマーは予告なしで日本に飛んできた。ゲイツやバルマーの巧みな外交は大きな戦果を上げた。ゲイツと一夕会食すると、翌朝にはメーカーの方針が変わったのである。