「学芸大学」「都立大学」駅名変えなかった理由 実態とかけ離れても「地名」として地域に定着
東急電鉄は1999年、受験生などから「駅名が紛らわしい」という声が出ていたのを受けて、両駅の地元である目黒区民に駅名変更に関するアンケートを行った。3分の2以上の賛成があれば変更する方針としていたものの、「学芸大学」の駅名変更に賛成したのは549名、反対は934名。「都立大学」は賛成630名、反対436名で、変更は成立しなかった。同年7月2日付の『朝日新聞』によると、「長年親しんだ駅名を変えないで」という声が多かったとのことだ。
両駅が開業したのは1927年で、現在の駅名になったのは1952年。学芸大学駅は「碑文谷」として開業し、その後青山師範学校(のちの東京学芸大学)の移転に伴って「青山師範」、さらに学校名の変更によって「第一師範」となり、その後学芸大学駅となった。都立大学駅は当初「柿の木坂」で、その後東京府立高等学校(のちの都立大学)の移転と校名変更に合わせて「府立高等前」「府立高等」「都立高校」、そして都立大学駅と変わっていった。
どちらも当初は地名を駅名にしていたが、学校の移転によって駅名の性質が変わり、その後は学校制度の改変に合わせて駅名が変わっていったのだ。
駅名が地名のような扱いに
その点から考えると、1964年に東京学芸大学が小金井市に移転した際に学芸大学駅は「碑文谷」、都立大学駅も1992年に大学が八王子市に移転すると同時に「柿の木坂」に戻すべきだったともいえる。
だが、長年のうちに駅名が地域の呼び名として定着し、地名のような扱いを受けることになると、「学芸大学」「都立大学」という名前が学校から離れてひとり歩きしていく。今となっては、あえて地名となってしまった駅名を変えるのはよくない、特に必要ないという考えが住民にあるのだろう。
1999年6月2日の『朝日新聞』には、当時学芸大学商店連合会の会長を務めていた飯島勲氏の「連合会は四十年もこの名前を使ってきた。イメージが定着しているので、変えないでほしい」とのコメントが掲載されている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら