昼夜フル稼働「寝台電車」は昭和の象徴だった クリームと青の特急「583系」が走った時代
筆者は昭和50年代、『鉄道大百科』シリーズや『鉄道ジャーナル』誌の企画である列車追跡シリーズなどで同乗取材を続けてきた。
583系でとりわけ印象に残っているのは、児童書向けの企画で小学生を読者モデルに登用し、上野―青森間の「ゆうづる」の添乗取材をしたときのことである。国鉄の全面的な取材協力により運転台の取材も可能となり、かねてから狭いとの定評があった運転台にも入ることができたが、予想よりも意外に広かった(運転士の評判は悪かったが)。
当日は寒波襲来による大雪だった。休む暇もないほど過酷な運用を続けてきたこともあり、車体は相当ガタがきていて、ドアや洗面所付近には隙間から吹き込んだ雪が積もっているほどだったが「ゆうづる」は無事、吹雪の青森に定時到着。583系の健脚ぶりを垣間見た思いであった。
鉄道ジャーナル誌の「食堂車追跡」という企画では、「彗星」「明星」などの間合い運用となる「雷鳥」に同誌の竹島紀元編集長と乗り込んだ。583系は寝台についてはオールB寝台のモノクラスだったが、昼行特急のために座席のグリーン車1両と食堂車が連結されていた。食堂車は夜行では運転時間短縮などで営業休止したものの、昼行特急「はつかり」「ひばり」「雷鳥」「有明」などで営業が続いた。
583系の貴重な食堂車営業列車である「雷鳥」とあって、狙いはその乗り心地とともに北陸の郷土料理を楽しむことにあったのだが、重心が高い583系の揺れは半端ではなかった。天井も高く殺風景で、583系の食堂車は居心地の悪い空間であったと記憶している。
運命を変えた「有明」
数ある583系を使用した特急の中でも「有明」はひときわ思い出深い列車だ。鹿児島取材の際、水俣から指定席に乗り込むと、ボックスシートのA席は恰幅の良い中年男性で、私のB席の半分以上を占めていた。ちょっと不機嫌なまま座ると、中年男性は「何を撮っているんですか?」と私のカメラバックを見て尋ねた。SLだということを告げると「一度、昼メシでも食べに来ませんか」と名刺を差し出した。その人は某大手教育図書出版社の編集次長だった。
後日、編集部に次長を訪ねると、筆者のSLの写真がグラビア4ページに掲載されることが決まった。さらに後日、知人だという出版社・ケイブンシャの出版部長を紹介され、そして『鉄道大百科』シリーズが誕生することになったのである。583系「有明」での出会いが筆者のその後の人生を大きく動かしただけに、思い入れは深いものがある。
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