赤羽vs立川「人気急上昇駅」の意外な共通点 現在の住宅街や公園はかつて「軍用地」だった

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時代を経るごとに、赤羽は軍都の色を濃くした。それは鉄道網にも大きく影響を及ぼしている。赤羽駅から延びていた軍用鉄道は緑道や道路に転換されており、現在は軍用鉄道の面影を残していない。

ちなみに、日本住宅公団が建設したマンモス団地「赤羽台団地」は団地マニアの間では有名な存在になっているが、この地は高級住宅街然としており、清朝の皇族・川島芳子が赤羽台に居住していた過去がある。

敗戦後、赤羽の軍事施設はことごとくGHQに接収された。被服本廠はアメリカ軍の住宅地に、そのほかの施設も兵器補給廠や戦車練習場になった。

接収された旧軍用地は返還後に公団住宅や公園、小中学校などへと生まれ変わった。しかし、一部は防衛省の十条駐屯地として残った。

東京都心部と多摩とを接着させる交通の要衝

軍都だった赤羽は、戦前・戦後を通じて交通の要衝を背景に大変貌を遂げた。同様の構図は東京都立川市の玄関として機能する立川駅にも当てはまる。

立川駅(写真:MK2014 / PIXTA)

日露戦争に勝利した日本は、その後も来る戦いに向けて軍備を怠らなかった。特に陸軍は飛行機という新たな兵器による攻撃を研究しており、その研究会は東京の中野に置かれた。

陸軍の飛行機研究が熱を帯びてくると、陸軍は最初の飛行訓練場に埼玉・所沢を選定する。陸軍が所沢を選んだ理由は、広大な土地があったこと。それに加えて、研究会が中野にあったことから中央線でのアクセス面が重視された。

陸軍は所沢で操縦士の養成を開始したが、軍部において空軍力の増強が重要との認識が強まるのは第1次世界大戦以降だ。

第1次世界大戦において、ヨーロッパ戦線では航空機が兵器として大活躍した。戦後のワシントン会議では、戦勝国を中心に各国の軍縮が話し合われた。特に戦艦の保有数など、海軍力に制限がかけられた。

ワシントン会議での海軍軍縮という方針を受け、日本は空軍力の増強に舵を切る。陸軍は飛行訓練場の新増設に着手し、1922年には45万坪もの広大な立川飛行場が開設、第5連隊が移駐。航空部隊の主力を担うことになる第5連隊が立川に移駐した理由は、鉄道が大きかった。立川は中央線で容易にアクセスができるほか、物資輸送に活躍していた青梅鉄道(現・青梅線)も通じている。まさに、立川駅は東京都心部と多摩とを接着させる交通の要衝だった。

第5連隊が立川駅を拠点に定めると、立川は急速に軍都化した。1928年には陸軍航空本部技術部が、1935年には陸軍航空廠が、1938年には陸軍航空技術研究所が、1940年には陸軍航空工廠が次々と開設された。

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