赤羽vs立川「人気急上昇駅」の意外な共通点 現在の住宅街や公園はかつて「軍用地」だった

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赤羽駅(写真:sunny / PIXTA)

赤羽駅前は新しい駅前広場が整備されているものの、駅一帯には昔ながらの商店街がいまだ根強く残っている。湘南新宿ラインの開業と時を同じくして、赤羽駅周辺のどことなく懐かしい飲み屋街が注目されるようになった。これらの、安く飲める立ち飲み屋・居酒屋は“センベロ”と称されているが、それが大々的にクローズアップされ出したのは2000年代後半。デフレという社会情勢を追い風にしたことが大きい。

戦後長らくは多くの土地が接収されていた赤羽

北の要衝・赤羽駅が発展を遂げるのは自然な流れのようにも思えるが、バブル期まで北区のにぎわいを牽引していたのは赤羽駅ではなく王子駅だった。

交通の要衝でもある赤羽駅が王子駅の後塵を拝していたのには理由がある。赤羽駅が戦前期から軍都として栄え、戦後長らくは多くの土地が接収されていたからだ。

軍都としての赤羽駅の歴史をひもとくと、1891年に陸軍が赤羽駅から近い台地の空き地に目を付け、ここに被服廠(ひふくしょう)の倉庫を開設。今となっては聞き慣れない用語だが、被服廠とは、軍隊用の服や靴を製造する工場のことを言う。陸軍は台地なら人の出入りが管理しやすく軍事機密が漏れにくいと考えた。そのため、1919年には本所区(現・墨田区)にあった被服本廠を赤羽台に移転。倉庫から本廠へ格上げされたことで、赤羽駅を利用する軍人や軍関係者が急増した。

赤羽に被服本廠が移転してくると、原料生産を手掛ける日本製麻の赤羽工場といった関連の軍需工場が赤羽の一帯に集積していく。終戦直後までに第一師団工兵第一大隊や近衛師団工兵大隊などが集まっていた。

軍関連の工場が集まれば、当然ながら多くの労働者が赤羽には集まる。飲食店や商店が集まるのは自然な流れだった。

また、大正期には岸一太が赤羽飛行機製作所を設立。耳鼻咽喉科の医師だった岸が、飛行機に興味を引かれたのは南満洲鉄道で働いていたときだった。

当時の南満洲鉄道総裁は、後藤新平。そのときに後藤の知遇を得たことで、岸は日本初の民間飛行機製造工場の立ち上げに成功する。そして、赤羽に工場を構えたこともあり、製造された飛行機「つるぎ号」は陸軍にも納入される。

赤羽駅から近距離にある板橋にも、火薬製造工場や軍関連の工場が集積していた。両者間の物資輸送を円滑にするべく、軍用トロッコも敷設された。赤羽には引き込み線が敷設されて各地から輸送されてくる物資の受け入れをしていたが、それらとは別に赤羽―板橋間の軍需工場を行き来する軌間762mmの軍用トロッコも走った。

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