本能は長い試行錯誤を経て進化しており、通常は優れて適応的である。齢(よわい)を重ね、世に尽くす喜びを感じる者は、上述の利他的行動を起こす本能に従っている。どこにでも年を経て、利他的本能を「タイマー発動」する者がおり、寄付や財団活動に勤む。チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』では、金の亡者スクルージが老齢に至って改心する。これが働き盛りではリアリティがない。
このためのメカニズムとして、脳は高齢に至ると、幸福度を感じやすく、他人に寛容になる傾向を持つ。岡本純子氏の「日本の高齢者は、なぜこうも「不機嫌」なのか」を参照いただきたい。なお岡本氏の論説は本件に限らず的確で示唆に富むものだ。
一方で、本能は環境次第で誤作動する。幸福で寛容であってほしい高齢者が、なぜキレるのか。NHKの「クローズアップ現代」では、怒りを抑制する前頭葉が老化するという生理的理由と、定年で生活環境が大きく変わるという社会的理由の2点を挙げた。
近年の「粗暴化」の要因として考えられる4点
しかし、老化で怒りの抑制が弱まることがあるとしても、先述のとおり、加齢で寛容性が増す傾向もある。総合すればかつては高齢者の粗暴性は低かった。老化も定年退職も昔からあったことである。近年の変化を理解するには、新しい構造要因を探す必要がある。その候補を4点考えてみる。
1つは健康の改善である。今日、60歳を過ぎて、矍鑠(かくしゃく)としてスポーツをこなす人は多い。半世紀前には腰の曲がった人が少なくなかった。体力があるから攻撃性が増すことは、容易に理解できる。
2つ目は、職場の変化である。バブル崩壊以前までの年功序列企業では職位が定年まで一律に上昇した。しかし、今は年齢だけで昇進はできない。定年が延長される一方で、ラインオフや子会社出向が生じた。結果、多くのシニア社員が、役職から引き下げられ、部下も権限もない職場に取り残される。
3つ目は、家庭内の権威低下である。女性の立場が弱く、男性に逆らうことが困難であった時代には、理不尽かつ無愛想で、家事などしない夫にも、仕方なく耐えていた妻が、今は黙っていない。熟年離婚で放り出される者、家族に相手にされず、有り余る時間を一人持て余す者があふれている。
4つ目の社会変化は、顧客本位主義である。感情労働が営業上有効と気づいた企業は、職員に「お客様の王様扱い」を強いる。この結果顧客が感情労働を当然視し、尊敬を強要する心理が広まる。また、すべての人が王様になるなら、すべての人が召使にもなることに注意が必要だ。顧客の立場で王様の扱いを要求する一方、自分が働く際は、召使の感情労働を強いられる。この振り幅を繰り返すうち、心が金属疲労を起こす。プライド過剰な高齢者では、特にストレスが大きく、時に心が破断する。
さてこれらが組み合わさるとどうか。体力はあって、職場にも家庭にも自己肯定の場がない高齢男性が、感情労働の蔓延する世界をさまよう。彼の抱える「満たされぬプライド」の程度が、一世代前に比べ、格段に高いことは想像に難くない。かくて赤の他人に無理やり敬意を要求し、態度が許せない、と言ってキレることになる。
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