北朝鮮にとって「米国との融和」は自殺行為だ リビア・イランの非核化から見えて来る未来

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

そのような中で、リビアは民間航空機爆破テロを次々と引き起こした。1988年のロッカビー事件では犠牲となった270人のうち、189人がアメリカ国籍だった。リビアはさらに1989年、フランスUTA機爆破事件も実行した。イランはイスラエルでテロ攻撃を行うレバノンの過激派組織「ヒズボラ」や、イスラエルと敵対するシリアのアサド政権を支援した。

リビアはなぜ核を放棄したのか

1992年3月末および1993年11月、国連安保理は2つの航空機爆破事件に対する制裁としてリビアに航空機の発着を禁じ、経済制裁を課した。アメリカはさらにイラン、リビア両国の国際テロへの関与を抑止することを目的として、1996年8月、イラン・リビア制裁法を制定して、独自の経済制裁を開始。両国の石油産業に年間4000万ドル以上を投資した外国企業を制裁の対象とし、年間1000万ドル以上の融資を禁止したり、アメリカ政府調達から締め出したりして、圧力をかけたのである。

ところが、1999年(ロッカビー事件から約10年後)、同事件に対する関与を一切認めていなかったリビアが一転、犠牲者家族への補償を表明、交渉を開始した。経済制裁に伴う国内政治情勢の不穏化と、海外ロビーの圧力が政権中枢に政策転換を促したのが理由だった。

1998年5月には、エジプト訪問中のカダフィに対する暗殺事件が未遂に終わっている。当時クリントン大統領やイギリスのブレア首相がカダフィ政権の体制保全を約束したことも、カダフィの軟化を引き出した。

2001年、9.11米同時多発テロが発生すると、アメリカとイギリスは同年11月アフガニスタンに侵攻、2003年にはイラクに侵攻した。これが決め手となった。

リビアは両国に攻め込まれるとの危機感を抱き、2003年12月19日、大量破壊兵器の開発計画を断念すると発表、翌2004年1月6日には包括的核実験禁止条約、同年2月5日には化学兵器禁止条約、同年3月10日にはIAEAとの保障措置協定の追加議定書を立て続けに批准した。リビアはこうして国際社会との対話を再開し、完全復帰を果たしたのである。

しかし、欧米諸国との和解は、カダフィ大佐を支持してきた民衆にすれば、国際社会への迎合であり屈服にほかならない。革命思想をあくまでも堅持し、孤立を深めながらも求心力を維持してきたカダフィ革命政権は、この時に終わりを遂げていたといえる。カダフィへの尊敬の念はもはやなく、豊かで自由な生活を志向した国民にとって、カダフィは邪魔な存在でしかなかったのだ。

次ページイランはいまだあきらめてはいない
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事