2人の技術者の邂逅がJR西日本を動かした 福知山線脱線事故後に巨大組織で起きたこと
翌2006年の2月、「刷新人事で出直しを図る」として、山崎正夫が社長に就任する。新社長の山崎は、JR西日本としては初の技術畑出身、それも、鉄道本部長を務めた後、清掃業務の子会社の社長として本社を7年も離れていた人だ。多くの関係者が責任を問われたため、他に適当な人がいないからという消極的な理由で、本来なら社長になるはずのない人が選ばれたのである。しかし、この人事が思わぬ展開をもたらした。
淺野がすごい論客だと知っていた山崎は、殴られるかもという覚悟で初めての挨拶に向かう。謝罪を述べる山崎に、淺野は「そんなに謝られても戻ってくるわけじゃない。それよりも自分は、事故の原因をちゃんと知りたいんだ」と穏やかに語った。
被害者には権利だけでなく義務もある
事故の話にはほとんど踏み込まず、技術者としてのお互いの経験や意見をとりとめもなく一時間ほど話した。淺野は山崎を「自分の言葉で語り、素直に感情を表す男」だと思い、山崎は淺野を「普通のご遺族とは視点がちょっと違う」と感じた。
苦労しながら社長を務めていた山崎だが、2009年7月「事故を予見できる立場にありながら新型ATSの設置を指示する注意義務違反があった」と神戸地検に在宅起訴され、辞任することになる。憔悴して、申し訳ありませんと頭を下げる山崎に、淺野は、遺族の代表者とJR西日本の関係者、中立的な学識経験者の三者からなる事故検証委員会の設置を持ちかける。
「責任追及を一旦横に」置き、「加害者と被害者という立場の違いを前提にしながらも、相互が、謙虚な姿勢で、できる限り客観的に今回の事故に向き合う」という委員会。被害者には権利だけでなく義務もある、と考えていた淺野らしい提案だった。
山崎はそれを受け入れて後任社長に引き継ぎ、3年以上の年月をかけて、事故原因の検証と安全対策についての議論が重ねられた。最終的な結論はふたつ。組織を可視化し、事故における組織の責任を明らかにし、後の安全対策につなげること。そして、事故を個人の責任に落とし込むのではなく、人はミスをする、という前提にたってシステムを構築すること、であった。
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