2人の技術者の邂逅がJR西日本を動かした 福知山線脱線事故後に巨大組織で起きたこと
2005年4月25日、死者107名・負傷者562名を出したJR西日本・福知山線の脱線事故。その事故で妻を亡くし娘が瀕死の重傷を負った淺野弥三一の言葉である。
「どうやって事故直後の数日間を乗り切れたかのかわからない」、「火山の噴火口に取り残された気分だった」、「当時の心境をひと言で言えば……自暴自棄、やろうね」と振り返る「感情が断ち切られた空の状態」だった淺野。しかし、そのような状態の淺野の前に現れた、会長をはじめとするJR西日本の幹部社員たちに誠意は全く感じられなかった。
阪神大震災の復興でも最善を尽くした
淺野は都市計画を専門とする建築家だ。高度成長時代、やりがいのある仕事ではあったが、どうしても不利益をこうむる人が出てしまう。常にそういったことが気になった。阪神大震災の復興でも最善を尽くしたが、責務を果たせたかと自問した。
そのような経歴を持った淺野であるからこそ、事故被害者のネットワークを通じて、一貫して「JR自身が事故原因、とりわけ組織的背景を調査して、公開の場で説明せよ」と求め続けた。そうして、懲罰主義に基づいた「日勤教育」、利益優先主義、組織の風通しの悪さ、新型ATSの設置の遅れ、などが指摘されていった。
「誠意を持って対応する」というくせに、JR西日本の対応は遅かった。事故当時に引責辞任した幹部社員三人が、こともあろうに関連会社の社長などに就いていたという事実が明らかにされたこともあった。もちろん、JR西日本は、そのことを遺族や被害者に伝えていなかった。これでは誠意どころか感情の逆撫でだ。
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