「若者のクルマ離れ」説で見落とされる本質 新しい価値を提供できていないことが問題だ
より多くの人にクルマへの関心が高まったのは、スーパーカーがもてはやされた1970年代後半であろう。さらに、80年代後半のバブル期にF1ブームが起き、ホンダのエンジンを搭載するマクラーレンに乗ったアイルトン・セナが人気を博した。その時代に子どもから青年期を過ごした世代は、クルマやモータースポーツに感心がないという若い世代に驚きを隠せないのだろう。そこから、若者のクルマ離れの言葉が生まれたかもしれない。
とはいえ、私と同世代の親を持つ子どもの中に、クルマが好きな青年を何人も知っている。彼らは、学校でクルマの話をするとオタク扱いされると言うが、それでも本人が好きなら関係ないと平気な顔で、クルマ関係の企業に就職している。そういう彼らに、かつて暴走族扱いされた自分が重なり、親しみを覚えもする。
人気車種が現れる背景
クルマが好きになるとは、どういうことなのだろう。
もちろん、速さという醍醐味はあるだろう。そこに私もかつて惹かれた。だが、速いことだけが好きになった要因ではない。格好いいデザインも不可欠だ。クルマが格好いいとはどういうことかといえば、速さを目に伝えることのほかに、自分の未来を重ね合わせられる夢が必要なのではないか。
かつて、1960年代から1970年に掛けてのクルマは、デザインに夢があった。それは、カーデザイナーたちが夢を描こうとしたからではなく、速さを見せるため、人間より速く駈けたり飛んだりする生き物などから創造力を膨らませ流線形を描き、なおかつ速さを生み出す技術にも知見をもって描いていたからではないだろうか。カギは、人の創造力にある。
一方、今日は、空気の流れもコンピュータシミュレーションにより画面上で見ることができる。どういう形が速さを生み出す要件なのかが一目瞭然だ。そこを外せば、空気抵抗が増え、燃費が悪化し、新車の性能競争で負けてしまう。
あるいは衝突安全基準が厳しくなり、外板の内側の構造がこうでなければ衝撃を吸収しきれないとか、歩行者保護できないという骨格が決まるため、それを覆う形はおのずと制約を受ける。
同時に、生産過程ではプレス機械が対応できる鋼板の曲げを超えることができないため、曲面の作りかたが同じようになる。かつて、プレスできなければ人が鉄板を叩いて曲面を作り出したが、大量生産と原価低減に厳しい現代ではまず無理だ。
クルマは、時代とともに走行性能や生産方法、あるいは安全性能が成熟したが、一方で、人間の創造力を活かしたデザインをしにくくなっているのも事実だろう。
それでも、人気車種というのはある。
人気車種が現れる背景には、その自動車メーカーの哲学や、あるべき姿という存在価値の検証が行われている。表層的に、ただ格好よければいいとか、速そうに見えればいいというだけでない、人間の心に迫る本質への追求が新車という形になって表れたとき、たとえ空力や安全基準の制約があっても新しい発見を持ち込み、魅力ある新車が生みだされる。
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