現代人を縛る「あの人もう終わったね」の恐怖 固定観念を打ち破れば真の自由が手に入る
これが、会った瞬間にうんざりするようなステレオタイプのプロデューサーだったら、早々にミーティングを切り上げたのだろうと思うが、話を聞けば聞くほど、これは参ったなという感じで、自分ももう少し真面目に生きてくれば良かったと反省することしきりだった。しかも、自分にはそうした人生の可能性は見えなかったけれど、そこには本当は著者のような生き方があったのかと。
いずれにせよ、「茹でガエル世代」と言われる我々50歳代に、自分の人生の逃げ切りだけでなく、これほど社会のことを真面目に考えている人もいるんだなと分かっただけでも嬉しかった。
価値合理性を問い直してみよう
著者が言うには、学問には原初的な「問い」を考え続ける持続力が要請される。自然を相手にする自然科学に対して、人間や人間の所産を扱う人文系は、客観性や実効性の点でどうしても旗色が悪い。IT化が進み、何事においても、ビッグデータ、科学としてのエビデンス、証拠となるデータなどが真理を語る時代にあって、「使えない」とか「役に立たない」ということになる。
しかしながら、人間の思考、心、感情は、時代の大きな変化に追いつくような更新を果たしたと言えるだろうかというのが、著者が投げかける疑問である。19世紀にヨーロッパで産業革命が起こり、土木工学、機械工学、物理学、化学といった自然科学の知が主流になっていくと、「人文社会科学の知はどのような価値を持つのか?」が議論されるようになった。
これについて、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のマックス・ウェーバーは、自然科学的な合理性に対し、目的は自明ではないことを自覚し、その自明性の呪縛から解き放たれるには、根源的な「価値とは何か?」を問う文系的な知が必要だと考えた。
つまり、合理性には価値合理性と目的合理性の2つがあり、価値合理性とは、勤勉に働くこと自体が神への奉仕であり、お金を儲けるために働くのではないというピューリタン的な合理性である。ところが、お金が貯まり、それを再投資することで資本主義経済がさらに拡大していくという仕組みが一旦できあがると、当初の価値合理性は見失われ、目的に対する手段を追求し続ける目的合理性が社会を覆うようになったというのである。
そして、今一度、この価値合理性を問い直してみようというのが、著者の目指すところなのだと思う。それが、「結論は出さなくていい」ということの意味なのだろう。この歳になって、同じ思いを持った人物に巡り会えたことを、大変幸せに思う。
最後に、番宣という訳ではないが、来年正月3日にNHK BS1スペシャル『欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~』が放送されることになった。正月が待ち遠しい。
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