33歳、タイで転職繰り返す日本人女性の苦悩 コールセンターは安住の地ではなかった

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村上にとって胸を張って人に言える仕事ではなかった。日本に一時帰国の際、地元の友達からタイでの仕事について尋ねられて、渋々説明している自分に気がついた。

「何もしていないとは言えないので、コールセンターで働いていることを説明していました。友達からしたらコールセンターの実情をよく知らないので、『海外に住んですごいよね!』っていう見方になるんです。でも誰でも働ける職場なんですよ。自分からしたら最底辺なんですけど」

美大を目指したものの、受験に失敗

村上の青春時代は実に複雑だ。芸術家だという父親の影響で美大を目指した彼女は、高校の夏休み期間中、美大予備校に通ったが受験に失敗。浪人は許されていなかったため、地元九州の短大に入学する。ところがその年の夏、東京から帰郷した友人たちの見違えるような姿に羨望を抱くと、自分も都会へ出たいと短大を中退して福岡に移った。

デザインの専門学校に通いながら、弁当店、宴席のコンパニオン、スナックのホステス、ラブホテルの清掃員などのバイトをする日々。その後、「地元で地に足をつけて生きよう」と一旦は故郷に戻り、携帯電話販売店に転職してみたが、専門学校時代に借りた奨学金とクレジットカードで作った借金を返すため、派遣労働者として愛知県にある自動車部品製造工場で働いた。仕事は鉄製の小さな基盤を切断機に次から次へと置いていく単純作業だったという。

「作業着を着て、基盤を切断機の所定の場所に置きます。スイッチを入れると機械が勝手に切断するのでまた基盤を置く。すごい単純な流れ作業でした」

身振り手振りで村上はそう説明する。

工場で働く作業員の半数以上は女性で、村上と同世代の20代半ばが中心。大半が沖縄県出身で、ほかに北海道、青森など最低賃金の低い地方からの労働者が占めていた。給料は手取りで25万円。村上は半年ほど働いて借金を完済すると、さらに半年働いて貯めた現金150万円ほどを握りしめ、地元の恋人と一緒に上京した。

ようやく憧れの東京で同棲生活が始まった。

仕事はまたしても派遣である。携帯電話の契約センターで顧客情報をひたすら入力した。この頃、アジアを旅する日本人たちのルポルタージュを読んで感化された村上が、同棲相手と一緒にタイに行ったのが最初のアジア旅行だった。

「そこですごい面白い人と出会って、何年も旅している日本人とか。まさに私が会いたかった”アジアン・ジャパニーズ”に死ぬほど会えたんですよ。肌も真っ黒でヒッピーみたいな旅をしているカップルにも出会いました」

『アジアン・ジャパニーズ』とは、写真家の小林紀晴(きせい)氏が1995年に発表したデビュー作で、アジアを漂流する若者たちの心の内を描いてベストセラーとなった書籍のタイトルだ。ちなみに私もこの本に影響を受けてアジアを放浪した1人である。

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