不安に強い人は「孤独」を飼い慣らしている 「孤独」と「寂しい」はまったく別のことだ
誰もが気軽に参加できるSNS上のつながりが何かの役に立つこともあるでしょうが、確たる芯がある集団ではないように思われてなりません。仮に、SNS上でつながっている1人が窮地に立って救いを求めたとして、手を差し伸べる人はどれだけいるでしょうか。何か事があれば、つながりの希薄さは露呈するのではないでしょうか。
それでも人はつながりを求め、グループの一員であることを欲します。理由は、1人でいることが不安だからであり、そこにあるのは「孤独(1人)=寂しい」という図式です。しかし、これには異論があります。私は、孤独であることと寂しさは異なるものだと思います。
お釈迦様は、「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め」とおっしゃいました。“孤独のすすめ”といってもいいでしょう。自分を確立するためにも、自分が歩んでいく道を見定めるにも、孤独であることが必要なのです。
独りで静かに過ごす孤独な時間のなかでこそ、自己は形成され、確立されていきます。自分を見つめるための充実した時間をもたらしてくれる孤独が、寂しいものであるわけがありません。
他人と比較しても、いいことは1つもない
孤独な時間を得て、自己を確立する過程では、自分を他人と比較しないということがとても重要になります。「隣の芝生は青い」という言葉があるように、人は得てして、他人のものはよく見えてしまうものです。しかし、他人と比較して、自分にいいことがあるでしょうか。
禅では、比較することを強く戒めています。私は多くの「禅の庭」を手がけてきましたが、自分の作品とどなたかの作品を比べるということはまったくありません。それだけでなく、自分の作品どうしを比較することもしません。「禅の庭」はそのときどきの自分の心を表現したものです。自分の心の有り様、心の境地がそのまま「禅の庭」にあらわれるのですから、比較自体がありえないのです。
社会や組織においても、比べることに意味はありません。たとえば、待遇のいい会社にいる友人と自分を比べたら、自分の待遇が改善されますか。大きな仕事を任されている同期社員と自分を比べることで、自分にいい仕事がまわってきますか。比べたところで自分は変わらないし、事態が好転することもないのです。それどころか、羨望や嫉妬、自己否定といったネガティブな感情にとらわれて、余計につらくなるだけでしょう。
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