司法書士に転身した近鉄ドラフト1位の軌跡 清原の「外れ1位」、桧山泰浩の異色キャリア
高校を卒業した新人がすぐに通用するはずがない。誰もが壁にぶつかったあとにもがき苦しみ、はい上がっていくのだ。ところが、桧山は最後まで浮上のきっかけをつかむことができなかった。
プロ3年目の1988年に仰木彬が監督に就任。1986年ドラフト1位の阿波野秀幸を中心にリーグ優勝を狙える投手陣が構築されつつあった。桧山は完全に蚊帳の外にいたという。
「いくら頑張っても、人間は180度変われるものじゃない。そう悟っておりました。プロでの4年間が終わって、もう体も鍛えようがない。技術が上がるとも思えない」
練習後に飲み歩き、遊びほうける日々
5年目のシーズンも、6年目のシーズンも代わり映えしなかった。何かを変えようという意思もなく、これまでと同じ日々をただ過ごした。「私自身はもうやる気は全然ありません。毎日毎日、遊びほうけ、飲みまわっていました。練習にも身が入りませんでした。ほかの人には迷惑をかけないようにして、『あとは死を待つだけ』でした」(桧山)。
その後、桧山は韓国プロ野球に移籍したものの、右ひじを故障し、ユニフォームを脱いだ。選手時代に稼いだ年俸は遊興費で消えていた。もう遊んでいる暇はない。しかし、次の仕事が簡単に決まるはずがなかった。
「プロ野球選手は、おカネは稼いでいるけど、社会人ではありません。言ってみれば、子どもの延長みたいなもの。野球をやめて日本に帰ってきても、自分には何もない。すぐに知り合いから電話がかかってきたので、そこで働かせてもらいました。大阪で2年間、衣料品関係の会社に勤めました」と桧山は話す。
生きがいも楽しさも仕事には求めなかった。社会勉強のつもりで、2年間黙って働いた。そうするうちにやっと「次」を考えられるようになった。
「プロ野球選手の引退後の仕事というと、飲食業が多いけど、自分には合いそうもない。180度違う世界はないかと考えたときに、資格士業が浮かびました。いろいろなものがありますが、飯を食えないと意味がない。『食える資格』というのは、どれも難関です。
検討してみると、司法書士、弁護士、税理士、公認会計士が残りました。目指すべきは、この4つのうちのどれかだと思ったのですが、私は大学に行ってないんです。司法書士以外は大学の卒業資格がいる。正確には、教養課程を修了すればいいんですが、いまから大学に入る時間がもったいない。でも、司法書士なら、大学に行かなくても取れる」(桧山)。
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