原発事故から2年半。「避難」に奪われた命 東京オリンピックと終わらぬ悲劇

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弱者が淘汰されていくのか

「やっぱり避難所での生活や移動に耐えられなかったんだべ」

取材に応じてくれた南相馬市内の病院に勤める医師はため息まじりに答えた。

福島第一原発から20~40kmに位置するこの病院は、原発事故により全入院患者を避難させねばならなかった。それでも、3.11から2カ月後の2011年5月から徐々に業務を再開させ、入院患者も受け入れていた。

6月以降、毎日のように人が亡くなっていった。月に5~6人だった死者は、倍に増えた。入院した患者の多くは、入院したかと思うとあっという間に症状が悪化し、そのまま亡くなっていく。通常であれば、点滴程度で良くなるはずの病状の患者でも、抑うつ状態に陥り、生きようという気力もなく、そのまま衰弱していくケースが散見された。このような患者のほとんどが65歳以上の高齢者だった。

もともと病院にかかっていない高齢者でさえ、避難により心身のバランスを崩し、命をも落としてしまう。南相馬市の医師が、福島県中部の郡山市内の病院に勤める友人に連絡すると、その病院でもやはり避難してきた高齢者の死亡が相次いでいるという。

「弱者が淘汰されていくのかと思うほど、簡単に亡くなっていく」

そうつぶやいた友人の言葉に、医師はぞっとした。

長距離におよぶ移動や、介護環境のない避難生活の影響がなかったとは言い切れまい。この教訓を、今後に生かしうる機会の1つが、地方自治体が定める避難マニュアル、「地域防災計画」だ。

工場での避難生活

しかし、東日本大震災から2年半たった今、各地の地域防災計画は完成に至っていない。市町村がこうした高齢者施設の避難計画を作成しようとしても、数十〜数百人の高齢者を受け入れる先が見つからないのだ。福島原発事故による介護施設の避難でも、利用者の避難先がなかなか見つからず、過酷な避難生活を強いられた施設が多い。

福島原発から2キロメートルにある特別養護老人ホーム「サンライトおおくま」には、特別養護老人ホームやショートステイの利用者約110人と職員約40人がいた。震災から3日目、田村市内にある小学校の体育館に避難していたが、新学期の準備があるという理由で再度避難しなくてはならなくなった。

どこの避難所も被災者でごった返しになっている中、150人を一挙に受け入れることができる避難所は皆無だった。田村市役所に相談すると、自動車部品メーカーのデンソー東日本の工場であれば、全員が避難できるという。

「高齢者を工場に?」

施設長の池田義明さん(当時63歳)は信じられなかった。工場は完成されたばかりでまだ使われていない。広いコンクリートの床と高い天井。奥には20坪程度の社員食堂用の部屋があり、不安はあったが、この部屋で150人が過ごすことに決めるほかなかった。

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