そして、会社の職掌上、曲線へのATS設置は鉄道本部長の判断に委ねられ、社長らはその危険情報に接する機会が少なかったという事情の下では「運転士がひとたび大幅な速度超過をすれば脱線転覆事故が発生する」という程度の認識では、過失の根拠となる注意義務の発生根拠とすることはできず、歴代社長らが鉄道本部長に対してATSを尼崎事故の現場に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったとは言えないとして、無罪としたのである。
事故が起きたときの会社やトップの責任は、民事責任、刑事責任、行政上の責任、社会的責任、道義的責任などさまざまな責任が考えられる。
そのなかでも、国家権力が刑罰権を行使して人の自由や財産に対して厳しい制裁を科す刑事責任の認定については、やはり慎重かつ厳格にならざるをえない。尼崎事故時に事故現場のような曲線区間にATS設置をすることが法律上義務づけられていなかったなら、事故に対して社長らに刑事責任を科すことは、国家が刑罰により義務なきことを強制することになるからである。刑罰を科せられるのかどうか明確な基準がなければ、あるいは予測不能な刑罰が科せられることになれば、日々の行動の萎縮につながる。
無罪でも「責任」はある
もちろん、だからといって会社や役員の責任が軽くなるというものではない。
余裕のないダイヤ設定や「日勤教育」など組織上の問題も事故の遠因として指摘された尼崎事故では、間接的にではあれ、トップの意向が無理な回復運転につながり、尼崎事故を発生させたという側面も否定できない。
確かに、運転士が制限速度を守っていればATS設置の有無に関係なくそもそも事故は発生しなかったが、鉄道事業者として、列車の高速化や余裕のないダイヤ設定、厳しい線路配置をする以上は、その前提として速度超過による危険を回避する措置など十分な安全確保を行うべきであったともいえる。その点では少なくとも歴代社長や会社の社会的責任や道義的責任は免れないであろう。
刑事責任は、判決で示された刑を個人や法人自体が受け、刑が終わればそれで責任は果たしたことにはなる。しかし、社会的責任や道義的責任は刑事責任とは異なり、主体の面でも内容の面でも明確な範囲の限定があるわけではない。いつか社会の信用が回復されるまで永続する責任であるし、むしろ社会の信用が回復されても永続されなければならない責任である。
尼崎事故について歴代社長は無罪になったが、会社や現役員にはJR西日本のHPのトップページにあるように事故を風化させることなく「責任」を果たしていくことが望まれる。
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