香港「雨傘運動」、若者たちに実刑判決の意味 北京政府に「忖度」した香港司法
羅氏は、「政治に参加した時点で、入獄の危険があることはわかっていたが、こんなに早く事態が変わるとは思わなかった。みなさんは私たちの実刑を悲しまないでほしい。このことをさらなるエネルギーにして社会の進歩につなげてほしい」。そして周氏は、「3年前に学生運動に加わった我々の世代には、この道を歩み続ける使命がある。収監されても若者の心をくじくことはできない。世界は必ず変わる」と語っていた。
彼らの清々しいまでの態度に比べて、高等法院の判決理由は、「香港には最近、法律が与えた権力を、自由や理想を追い求めるために使うという誤った風潮が広がっており、一部の知識人も含めて、違法行為によって目的を達成するスローガンで他人をそそのかしている」などと、およそ刑事事件らしからぬ抽象的な内容で、説得力に欠けたものだった。
確かに、政府に抗議するために、公的機関の壁を乗り越えることは違法である。それが罪に問われることは、ある部分ではやむをえない。その行為への代償として、第1審による判決は妥当なものだった。それを覆した今回の判決には、司法を超えた政治的な意味があると見るべきである。
「政治犯」の出現
前日には、別のデモ関係の案件で、13人の政党幹部や活動家、若者らが、同じように1審の社会奉仕などの判決を覆されて実刑判決を出されており、その判決を下したのも、この日と同じ裁判官だった。
これは、事実上の「政治犯」に対する判決と言っていいだろう。早々と15日付の社説で政治犯の出現に警鐘を鳴らした米紙『ニューヨーク・タイムズ』はさすがだった。
同紙は、「香港で政治犯が現れるということは、中国がさらに香港問題に干渉することの象徴であり、本来は政治の影響を受けない香港の裁判所が、中国共産党の圧力に直面し始めており、1国2制度の約束が徐々に1国1制度の現実に取って代わられつつある」と指摘している。
政治犯とは、反政府的な態度や言動を取っただけで、政府から罪を犯したと見做され、司法罰を受けることになった人々である。民主社会には本来、出現してはならない人々で、政治犯が存在するかしないかは、権威主義体制か民主主義体制かを区別する指標であるとも言える。