53年前、「100m9秒台に迫った」日本人の真実 東京五輪で優勝候補→プロ野球に転身の内幕
いったいなぜ24歳という若さで陸上を引退してしまったのか。飯島は語る。「私はもともと芝とか土の世界で生きてきた。1968年メキシコ五輪の時はグラウンドの素材が土からタータン(ゴム製のトラック)に変わった。タータンは地面からの反発が速く、ふくらはぎがパンパンに張ってしまうんです」
土からゴム、グラウンドの変化に走法が合わなかった
土のグラウンドで育った飯島の走りは、タータンの速い反発に対応できなかった。時代と環境の急激な変化についていけず、陸上の道、そして100m9秒台の夢を諦めたのだった。
引退後、日本陸上競技連盟から短距離コーチの要請もあったが、自分の走法は新時代のタータンとは合わないため、教えることができないとこの要請を固辞。陸上界から去った。とはいえ、なぜ突然、プロ野球の選手に転身することになったのか。
「最初はプロ野球の走塁コーチとして依頼があったんです。誰が言ったかわかりませんが、『走塁コーチはいつでもできる、だからピンチランナーでやらせたらどうだ』という話が出たんです。私の知らないところで」
プロ野球の走塁コーチとしてのオファーのはずが、本人の知らないところで急展開。世界初の代走専門選手として入団することになったのだ。これがプロ野球選手、飯島秀雄誕生の真実だった。
しかし、入団後は盗塁成功23回、盗塁死17回と思うような成績を残せず、わずか3年、27歳の時に戦力外通告。改めて当時を振り返ると飯島は少し悲しい目をして、素直な気持ちを吐露した。
「(プロ野球への転身を)後悔している。行かなければよかったと今でもそう思っています。成功していればそうは思いませんが、成功しなかったから・・・・・・」
飯島はTBSテレビが8月27日(日)よる6時30分から放送する「消えた天才 ~一流アスリートが勝てなかった人 大追跡~」にも出演する。飯島秀雄は現在73歳、茨城県水戸市で「飯島運動具店」を経営。地元の小中学校へ、ジャージや部活のユニフォームを届ける等、地域に密着したスポーツ店を営みつつ、日本の陸上競技界でも仕事をしている。
屈辱のプロ野球引退からたどり着いた「サードキャリア」。それは自身の知恵と経験を生かした原点回帰でもある。(文中敬称略)
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