ピコ太郎が国連版「PPAP」で担った重要な役割 日本人に「持続可能性」がピンと来ないワケ
以上の17項目は、これまで人類が直面してきた課題の一覧とも言え、ベースには近代に生まれた人権、自由、平等、デモクラシーといった概念があることがうかがえる。
いわゆる先進国と呼ばれる国の場合、飢餓をなくす、清潔な水の確保、公衆衛生といったものは、高いレベルを維持している。ただ、初めからそれができていたわけではなく、歴史的に克服してきた課題だ。
ここで私が現在暮らしているドイツの例を見ると、これらの課題に対して社会政策の展開をもって歴史的に取り組んできたことがわかる。特に第二次世界大戦後の旧西ドイツは、経済分野と関連付けて「社会的市場経済」として位置付けた。自由競争を維持しつつ、ある程度、国家が市場を規制・調整し、社会全体のバランスをとるというもので、これは日本の市場経済とは異なるものだ。
1970年代のドイツでは、自然破壊や資源の枯渇などの問題が浮上し、人類が生存している基盤(自然)そのものを保全していかねばならないという課題が出てきた。こうした課題は「環境問題」として位置付けられ、社会・経済の構造を見直すことになった。ドイツにおけるこうした歴史を振り返ると、「持続可能性」とは、近代に登場した諸概念をベースに、これまで発生した数々の問題を課題ととらえ、新たにパッケージングし直したものと言える。
ドイツの地方都市で身近な「持続可能性」
現在のドイツの地方都市を見ると、「持続可能性」という言葉が身近に用いられていることがわかる。都市計画の目標を設定するときによく用いられるほか、法律面においても、連邦建築法典で「持続可能な都市計画」が言及されている。
私が住んでいる人口10万人程の都市、バイエルン州エアランゲン市では、昨年秋のある日曜日に「君の都市と君」という持続可能性をテーマにしたイベントが開催され、50以上の団体が参加、1000人以上が来訪した。
会場となったのは、市街中心地の500メートルあまりの歩行者ゾーン。大通りに隣接する広場も使って、カーシェアリングや地域マネーを進めるNPOを紹介したり、市の環境局が街の環境政策の歴史について説明するパネルを展示した。図書館は持続可能性に関する本を紹介し、スポーツ局は健康政策としてのスポーツを紹介していた。ほかにも電気・水・ガス・公共バスを提供するインフラ供給会社、大学、文化施設、市民イニシアティブグループなど、あらゆる団体が持続可能性に関するブースを出した。
興味深かったのは、紙のテーブルクロスや紙の皿に自分にとってかけがえのないものを自由に書き込むインスタレーションだ。通りがかった人がいろいろな言葉を書きこんでいくのだが、そこに書かれたものを見てみると、「健康」「良き隣人」「家族」といったもののほかに、「デモクラシー」「連帯」「リスペクト」「寛容」「自由」など、日本ではやや大げさに聞こえる言葉もかなりある。
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