丸ノ内線の地上走行は徳川家康のせいだった 東京の地下鉄が地上に顔を出す歴史的背景
たとえば品川駅から山手線外回り電車に乗ってみよう。品川駅はかつての海辺なので標高3メートル程度。渋谷駅は駅前広場が標高約12メートル、高架上が標高約20メートル、新宿駅が標高約37メートル。ここが地盤面での山手線最高所の駅である(代々木駅の高架上が最高所で約39メートル)。この先、池袋、田端方面に向けて下っていく。品川―新宿―田端間では、途中凸凹地形の中を線路は何度か小さな上り下りを繰り返してもいる。
銀座線の渋谷駅や、丸ノ内線の後楽園―茗荷谷間などで地上に現れるのも、純粋に自然地形の凸凹による。しかし、東京の地形の特徴を述べだすとキリがないので、徳川家康と地下鉄との関連に絞って話を進めよう。
徳川家康が江戸入りしたのは1590年。当時江戸には砦のような小さな城があるだけだった。家康は起伏の多い地形と格闘するようにして都市づくりを始め、江戸幕府を発展させていく。その格闘の地として現在も痕跡がわかりやすいのが、御茶ノ水駅付近や四ツ谷駅付近である。いずれも丸ノ内線が通っている。
中央線御茶ノ水駅のホームに立つと、線路と平行した所に神田川の流れが嫌でも目に入る。ホームは神田川南岸の崖の途中にへばりつくようにして造られている。ホームから見上げる位置の谷上に改札口があり、見下ろす位置、水面近くに丸ノ内線電車が神田川を渡る鉄橋がある。
この神田川の谷は、自然にできたものではない。人工的に造られたものである。正確にいえば、江戸時代初期、第2代将軍徳川秀忠の時代の1620年頃に本郷台地を東西に切り裂く形で開削された。
丸ノ内線は地下の浅い場所に建設
家康は1616年に没しているので、家康が造ったとは言えないとの声もあろうが、家康は江戸にやってきて以来、江戸城の築城、江戸湾の埋め立てなど江戸の町づくりに計画的に着手してきた。この部分は江戸城の外濠にあたる。実際の工事は、子の秀忠の時代となった部分である。
なぜこんな工事をしたかといえば、丸ノ内や大手町、日本橋付近など武士や町人が多く住む地を、神田川の洪水から守るためだった。
江戸時代より前の神田川は、飯田橋駅付近から下流は、神保町、大手町、日本橋方面へと流れていた。その流れを、徳川幕府が大土木工事を行って御茶ノ水付近の外濠(現・神田川)方面へと変えた。江戸幕府が開削したのは、現在の水道橋駅西側から中央線に沿って御茶ノ水駅、万世橋、秋葉原駅付近を経て、隅田川に注ぐ部分までの現・神田川である。
東京の地下鉄の歴史を簡単にひもとくと、現・銀座線の浅草―上野間が日本で初めての地下鉄として1927年に開業、1939年に全通。丸ノ内線は東京で2番目の地下鉄として池袋―御茶ノ水間が1954年に開通、1962年に全通する。
この時代までの地下鉄は、ほとんどの区間が、地表面から掘り下げて線路の構造物を構築して後で埋め戻す開削工法で造られている。必然的に地下の比較的浅い所に建設されている。
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