日本の教育、「皆同じでなければ」への違和感 乙武洋匡がオランダで見た子どもの伸ばし方

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よく見ると、教室内には彼以外にもう1人、ヘッドホンを装着している子がいた。日本では間違いなくカミナリを落とされる行為だが、イエナプランの学校ではおとがめなし。よく見られることだという。それもそのはず、イエナプランでは定められた到達目標に達成することが重視されており、その目標を「どのように」達成するかは各自の自由であるという思想が徹底されているのだ。だから、学習がはかどるならヘッドホンをすればいい、となる。

そこで、別の疑問が頭をもたげてきた。もし、彼らのように雑音を遮断するための耳栓という用途ではなく、「音楽を聴いたほうが学習ははかどる」という理由でヘッドホンの着用を求めた場合、それも認められるのだろうか。

答えは、「まずは、子どもとよく話し合う。本当に音楽を聴きながらのほうが学習にプラスになるということであれば、特に止める理由はない」というものだった。ヘッドホンから音が漏れるなど、ほかの子どもにも迷惑が生じる可能性がある場合は、クラス全体で話し合うことになるという。

こうした対応に、日本で教育を受けてきた私たちは、少なからず困惑してしまうかもしれない。だが、立ち止まって考えてみると、頭ごなしに「ダメ」と決めつける必要もないのかもしれないと気づかされる。大人の私たちだって、音楽を聴きながら作業をしたほうがはかどるという人もいれば、かえって気が散って集中できないという人もいるだろう。どちらが正解などということはなく、向き不向きの問題だ。

それは、子どもたちだって同じこと。その子が集中して課題に取り組めるなら、音楽を聴きながらでもまったく問題ないというわけだ。日本の感覚からすると戸惑ってしまう光景ではあるが、その理由を聞いてみると、なるほど合理的だと感じた。

「えっ、日本はオランダよりテクノロジーが進んでいるんじゃないの?」

この学校の教室には黒板がないと書いたが、代わりに電子黒板がある。さらにはデスクトップPC。子どもたちは学習を進めるうえで必要なときは、いつでもこのPCにアクセスすることができる。私の目の前でも、中国人の女の子が席を離れてPCの前まで来ると、慣れた手つきで調べ物をしていた。

これも日本の学校ではあまり見ることのできない光景だが、これをオランダ人に伝えると、たいてい驚かれる。

「えっ、日本はオランダよりテクノロジーが進んでいるんじゃないの? そもそも、教室にあるPCや電子黒板、ほとんどが日本製じゃなかったかしら」

“みんなが同じ”であることを重視する日本の教育現場

その「テクノロジーが進んでいる」はずの日本では、なぜか教育のIT化が遅れている。予算の問題だけではない。たとえば発達障害の子どものなかには黒板に板書された内容をノートに書き写すことが難しい子もいるが、タブレットを持ち込ませてほしいと学校に申し出ても、「ほかの子がうらやましがるから」という理由で却下されてしまうケースもめずらしくない。子どもの学力を保障することよりも、“みんなが同じ”であることを重視するなんとも不思議な文化が、確かに日本の教育現場にはあるのだ。

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