神宮球場をトコトン盛り上げる名脇役の実像 パトリック・ユウは挫折を乗り切り悟った

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「チーターズ」は結成当初、練習相手もいなかったのですが、学校の先生や周りの大人たちに協力を仰いで、地元の小学校と試合を組んでもらっていました。また、ぼくたちの活動を偶然知った神戸新聞の記者の方がコーチについてくれるなど、何かと周りから応援されていました。この頃の夢はもちろん野球選手。野球三昧の日々は、中学生になるまで続きました。

「一生の仕事」に一目惚れ、16歳でDJの世界に飛び込む

16歳でDJの世界に飛び込みました

パトリック氏:中学生からは、同じ神戸市内にある「カナディアン・アカデミー」という別のインターナショナルスクールに通っていたのですが、そこでは野球の代わりに、もっぱらバスケに夢中になっていました。相変わらず自由にさせてもらっていたのですが、だんだん成長するにつれ、子どもながらに、家の経済状況というのがわかってくるんですね。ある日、ぼくの学費などで年間三百万円近い出費をしていることを知り、もうこれ以上、母に金銭的な負担はかけられないと、高校進学のタイミングで、学校に通わずに働く選択をしました。

ちょうどその頃に、先輩が店長を務めていたディスコを尋ねる機会があったんです。まだ16歳でしたが、当時すでに身長も今とほとんどかわらず185cmはあったので、(それでも本当はダメなんですが)お店の中に入ってみたんです。大人の世界を覗くような気分でしたね。

ところが、ちょっと覗くつもりで入ったディスコで、強烈な光景を目にしたんです。今でも思い出すとその時の興奮が蘇ってくるのですが、きらきらとした照明、会場にひしめくたくさんの人と熱気、そしてその真ん中で(あとでこれがDJブースというのを知るのですが)で、ヘッドホンを耳にあて、レコードを針にかけダンスフロアを盛り上げている……。「DJ」という仕事があることを、この時初めて知ったんです。

――一挙手一投足、すべてが目に焼き付いているんですね。

パトリック氏:もう一目惚れでしたから(笑)。「俺の道はこれだ!」と、その日すぐに弟子入りを志願しました。年齢の面など、いろいろとグレーでしたが、当時できる最大限の配慮で、なんとか無給の見習いとして働かせて(?)いただけることになりました。夕方5時から働いて、店が終わった後に、先輩DJから手ほどきを受ける日々。毎日くたくたになってもおかしくないくらい働いているはずなのに、自分のしたいことができる幸せは、他の何にも代え難いもので、心身ともにやる気に満ちあふれていました。

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