仏マクロン「一度挫折した自由化政策」の行方 オランド前政権の二の舞になりかねない
フランス大統領選挙は筆者の予想通り、エマニュエル・マクロン氏の圧倒的勝利(得票率65%)で終わった。マクロン氏が就任のあいさつの場所として選んだのは、ルーブル宮殿の前だった。これまで左派はバスティーユ広場、右派はコンコルド広場というのが一般的だったのだが、今回の選択の意味は、左右どちらでもないということのアピールか、それとも元ブルボン王家の宮殿の前における「革命宣言」か。
選挙直前のマリーヌ・ルペン氏とマクロン氏のテレビ討論は、今回の選挙の意味を解明してくれる。開口一番、ルペン氏は、フランスはすべての点で敗北していると述べ、国家による保護が必要だと説いた。それに対してマクロン氏は、フランスは今も勝利者であり、敗北者ではないと切り返す。すかさずルペン氏は、今のフランスの実態を作り出した責任は、フランソワ・オランド大統領(当時)の閣僚だったマクロン氏にもある、と詰め寄る。
フランスの独立系新聞『ル・モンド・ディプロマティック』は、3月に興味深い記事を掲載していた。オランド政権の5年間の失敗について、マクロン氏には反省が足りないのではないかという批判的記事だ。しかし、テレビ討論でマクロン氏は、「オランド政権は失敗ではなかった。グローバリゼーションはフランスに富をもたらす」と、あくまでも主張。自由と進歩、それが未来をつくると。一方ルペン氏は、家族の絆、連帯を説く。二人はまったく対立している。
「自由経済」「家族の連帯」という対立軸
二人の議論を聞きながら、私は1789年9月のヴェルサイユの議会における左右の対立を思い出した。左派と右派という言葉は、もともとこの時、右(王政維持)に座ったか、左(王政打倒)に座ったかによって出てきた言葉である。右の思想は王政と宗教、左の思想は自由と進歩であった。
フランス革命の言葉は、誰もが知る「自由、平等、友愛」である。左右双方のいずれも、少なくともこの言葉の一つはもっている。自由が左、友愛が右である。しかし、平等という概念が左右ともに、実は抜けていた。それはやがて山岳派、そして19世紀の社会主義者によって再発見される。これが現在の左派の始まりだが。
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