日米首脳の蜜月こそが日本経済の「足かせ」だ 米国の戦略目標は、再び「日本封じ込め」へ
1985年半ば、米国は国際収支の不均衡の是正を図って、ドル高政策を転換し、プラザ合意が結ばれた。これによりドルに対する円の価値は、1985年9月の240円から1987年2月の150円まで急伸し、日本は「円高不況」に陥った。
要するに日本は、米国の為替レートの調整コストを押し付けられたのだが、そうなった背景は地政経済学的に分析しなければ理解できない。
経済学的には、当時の日本の輸出は米国市場に大きく依存していたため、対日貿易不均衡に対する不満から米国において保護主義が高まることは大きな脅威であった。このため日本政府は、為替レートの調整を甘受せざるをえなかった。
地政学的には、当時、ソ連が北東アジアにおける軍事力を強化しつつあり、大韓航空撃墜事件が起き、またソ連の潜水艦が日本近海に定期的に出没するといった状況にあった。このため、当時の中曽根政権は日米関係の強化を目指していた。ソ連の脅威を前にして、米国の軍事力に頼るしかない日本には、為替レートの調整に抵抗するという選択肢はなかったのだ。
経済政策の主権も失われた
「円高不況」に対応するべく、日本銀行は1986年1月から翌年2月までの間、公定歩合を計5回、2.5%にまで引き下げた。
1987年春ごろから景気回復が明確化すると、日銀は金融緩和の行き過ぎを警戒するようになり、金融引き締めを模索した。ところが、1987年5月の日米首脳会談後の共同声明において、日本銀行の短期金利オペレーションについて言及がなされ、短期市場金利はさらに引き下げられた。
日銀は、1987年8月末から短期市場金利を高めに誘導したが、これも米国の株価暴落(ブラックマンデー)の勃発によって中断し、さらに1988年1月の日米首脳会談において短期金利の低め維持が言及された。米国は多額の財政赤字と経常収支赤字によるドル安の進行がドル暴落につながることを恐れ、日本に低金利を要求し続けたのだ。
その結果、低金利政策は1989年5月までの約2年3カ月という異例の長期に及んだ。それがバブル経済の拡大を助長したのである。
そしてバブルは崩壊し、日本は深刻な長期不況に陥った。平成不況とは、日本が米国の圧力によってマクロ経済政策の主権を奪われた結果であったのだ。
さらに米国は、対日貿易赤字を削減すべく、日本に市場開放と構造改革の圧力もかけ続けた。
1985年に始まった市場志向・分野選択型協議では、電気通信、エレクトロニクス、医薬品・医療機器、木材製品、自動車部品が対象となり、翌年、規格の統一や関税の引き下げ等の合意がなされた。
1988年には、一方的な報復措置であるスーパー301条を含む包括的通商・競争力法が成立した。
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