知られざる真田信繁が討死の頃の「世界史」 日本史と世界史の「同時代感覚」が足りない

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事実、1614年の大坂冬の陣に際し、信繁が築いた出城(真田丸)の効果もあって、家康は大坂城を攻めあぐんだ。何とか和議に持ち込みたかった家康は、切り札を出すことにした。飛距離の長い南蛮渡来の大砲を投入して、淀殿のいる大坂城天主を脅かそうという策である。

ときに家康のもとにはオランダ人のヤン・ヨーステンとイギリス人のウィリアム・アダムズが外交顧問として仕えていた。二人は、1600年に豊後国に漂着したオランダ船リーフデ号に乗り組んでいた。家康はウィリアム・アダムズの献言によって、イギリス製のカルバリン砲を購入したようだ。

家康はカルバリン砲4門のほかにも南蛮渡来の大砲を複数用意しており、大坂冬の陣で苦戦するなか、ついにそれらを実戦投入することにした。幸いに大坂城天守は城郭の北側に位置しており、備前島に大砲を据えれば射程圏内にあった。

どの大砲の放った砲弾が、淀殿の居室に命中したのかは不明ながら、家康の予想に違わず、パニック状態に陥った淀殿は和議に応じた。

交わされた講和文書の内容には、大坂方に不利なものはなかった。口頭で交わされたなかには、外堀の埋め立てという一条があったが、大坂方代表はそれが大勢に影響するものとは考えなかった。それこそが家康の真の狙いであったというのに……。

徳川方は外堀だけではなく、内堀までも埋め立てしまった。天下の名城も裸城になってはどうしようもない。信繁らは城を出て、家康の本陣への突撃を敢行し、あと一歩のところまで追いつめるが、ついには衆寡敵せず、戦場の露と消えた。大坂城も落城して、豊臣の血は途絶えることになった。

スペインの無敵艦隊を壊滅させた「カルバリン砲」

大坂冬の陣で大坂方に講和を決意させたカルバリン砲とは、口径は小さいが射程が長い砲である。イギリス海軍はこれを1588年にアルマダの海戦に投入し、スペイン船の砲の射程外から砲撃し、スペインが誇る無敵艦隊を壊滅させた実績があった。ウィリアム・アダムズもこの海戦で実戦経験があったのである。

イギリスは東洋に進出して東インド会社を設立し、遅れてオランダも東インド会社を設立した。だが、イギリスはすでにインドを中心とする勢力範囲を形成しており、オランダはその外郭に進出するしかなかった。

また、イギリスとオランダはキリスト教ではプロテスタント国であり、多くの戦いが宗教上の対立を発端としているヨーロッパでは、これは無視できないことである。

こうしてイギリス人が乗りこんだオランダ船が日本に来航し、家康は淀殿からの和議を引き出すことに成功したのである。

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