知られざる真田信繁が討死の頃の「世界史」 日本史と世界史の「同時代感覚」が足りない
このように同じ時代を並べてみると、日本史と世界史が意外な形で見えてくる。カルバリン砲については、日本史と世界史が直接つながっていたわけだが、そうでない場合も同じ時期に世界で何が起きていたのかを知っておくのは、同時代感覚を身に付けるのに有用である。
豊臣家滅亡の翌年に文豪シェイクスピアが死んでいた!
真田信繁が死に花を咲かせていたころ、世界史も大きく動いていた。
ドイツではプロテスタントとカトリックの対立が高じ、1618年にはチェコのプラハで起きた国王代官窓外投下事件をきっかけに三十年戦争が勃発。カトリックの守護者を自任するハプスブルク家の国王とプロテスタントを奉じる諸侯が全面対決する事態となったのである。
これが純粋な宗教戦争であれば、カトリックの圧勝で終わっていたに違いないが、ハプスブルク家を不倶戴天の敵とするフランスのブルボン家が暗躍して、デンマークについでスウェーデンを参戦させたうえ、最後はフランスみずからプロテスタント側に立って参戦したことから、ヨーロッパ全体を巻き込む国際戦争に発展した。
フランスのブルボン朝は1589年に始まる王朝で、カトリックとプロテスタント間の宗教戦争が終息したばかりだった。パリの貴族社会ではサロン文化が流行を見せるなど、隣国が戦争状態にあるとは思えない優雅な雰囲気に包まれていた。
海峡を隔ててフランスと対峙するイギリスでは、1611年に欽定訳聖書が完成した。カトリックから独立したからは、ラテン語の聖書を使い続ける必要はない。そこでスチュアート朝のジェイムズ1世のもと、英語聖書の決定版が出版されたのだった。当時のイギリスは大衆文化の草創期にもあたっており、1616年に死去したシェイクスピアはそれの最大の立役者だった。
フランスから東へ目を転じれば、ロシアでは1613年にロマノフ朝が成立。内乱に終止符が打たれ、大国への道を歩み始める。
東アジアはどうかといえば、明王朝の衰退が顕著となるのと対照的に、東北部では女真族のヌルハチが勢力を拡げていた。1616年には国号を後金と定め、1619年にはサルホの戦いで明の討伐軍を大破した。
明が女真族に気を取られている間、別方面では李自成の反乱軍が勢力を拡大させていた。結局、明は李自成によって滅ぼされ、この李自成を破った後金改め清王朝が中華帝国の新たな支配者となるのだった。
明の遺臣は生き残った皇族を擁して抵抗を続けたが、時勢を変えるにはいたらず、つぎつぎと撃滅された。日本に援軍要請をした者もいたが、幕府からよい返事は得られなかった。このとき日本に亡命した儒者たちにより、水戸藩など好学の気風あふれる諸藩に尊王攘夷の思想が植え付けられ、幕末の政局に影響を及ぼすのだった 。
このように、日本史と世界史は同じ時代を並行して歩んでいるという視点で歴史を眺めると、意外な風景が見えてくる 。これが歴史の面白さでもあり、「ヨコ」のつながりで読み解くことで、歴史への理解がより深まっていくのである 。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら