あのバブルを、そろそろ歴史として捉えよう 80年代バブルを駆け抜けた「好漢」たちの群像
ジャーナリストである著者は歴史のIFを語らない。しかし、もし消費税導入が遅れていたら日本の財政はどうなっていたのだろう。失われた20年の後になってからの導入では日本は本物の財政危機に瀕していたかもしれない。NTTからはじまる国営企業の民営化がなければ、通信や物流の競争は起こったのだろうか。
つづく第3章「狂乱」では、いよいよバブル紳士たちが登場する。リクルートの江副浩正、イ・アイ・イの高橋治則、麻布土地の渡辺喜太郎、秀和の小林茂、光進の小谷光浩などである。物悲しくもそれぞれの節の最後には、彼らの墓碑銘のような文章が記されている。
邪悪なる善は甘い蜜に潜む
「夢破れた江副は、公判中も個人での株式売買に明け暮れ、2013年に帰らぬ人となった」
「小林茂は2011年4月、静かに亡くなったという、このニュースを取り上げるマスメディアはなかった」
まさにピカレスク・ロマンなのだが、本書はかれらの常軌を逸した豪勢な生活などについてさほど興味をもたない。むしろかれらを生み出した、銀行や証券会社などのエリートたちとの相互作用について解析をすすめ、日本の政治経済システムに残した正の遺産をも掘り出そうとするのだ。
たとえば、小林茂については当時の日本には存在しなかった投資銀行の機能を体現した存在だとして、その先見性を再評価する。ピケンズと小糸製作所買い占めを図った渡辺喜太郎については、その後日本企業や投資家が直面し、解決していく問題をことごとく先取りしていたと、事件を見つめ直すのだ。
繰り返しになるが著者はジャーナリストである。報道するにあたって中立性を保つ義務がある。しかし、著者はそれ以上に長期スパンから、バブルの功罪を冷静に分析するのだ。それも後付ではないことは、文中所々にあらわれる当時の記事や取材記録を読めば一目瞭然だ。
「邪悪なる善は甘い蜜に潜む」とは帝政ローマの詩人、オウィディウスの『アルス・アマトリア』からの名言である。邦訳タイトルは『恋愛指南』。たしかにバブルとはある種の恋愛なのかもしれない。国民ぐるみのユーフォリア、すなわち根拠なき熱狂は恋愛のそれに近い。あばたもえくぼという夢から醒めたとき、バブルは「邪悪なる善」として目の前に現れる。そしてまた「甘い蜜」は、姿を変えて再び我々の前に現れてくるかもしれない。
のちにフェデリコ・フェリーニが映画化した同時代の小説『サテリコン』には狂気の饗宴に身を沈める古代ローマ市民が無数に登場する。その饗宴の主催者トルマキオは成金の解放奴隷である。皇帝ネロの時代だった。
本書は80年代のバブルを概観しただけでなく、想像力を古代から現代、ローマから東京に巡らすならば、第一級の歴史読み物としても、この冬楽しめる1冊だ。本書を丁寧に作り上げた編集者にも賛辞を贈りたい。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら