「ほほ笑むことができない」難病の悲しい真実 メビウス症候群を知っていますか?

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私はつねに自分の顔を触っている。手を使って顔を動かすのだ。私は唇を指で動かす感覚が好きだ。幼い頃からずっとそうやってきた。

5歳の頃、祖母の化粧台にひざまずいて向かったときのことを今でも覚えている。ドアのところで祖母が見ていたのは気づかなかった。

こっそりと鏡に顔を近づけ、化粧台の冷たい御影石にひじをつきながら、2本の指を使って口角を持ち上げ、小さな笑みをつくってみた。

自分が人と違うと理解し始めたのが、このときだ。

祖母がそのとき見ていたことを教えてくれたのは、私が16歳のときだ。「胸が張り裂けそうだった」と祖母は言った。

幼少期も思春期もずっと、ひそかに鏡に映った自分に「ほほ笑み」続けた。ぎこちなかったが、自分の顔がほほ笑むのを見ると、学校の友達やバレエ教室の子、スーパーの列にいた大人まで、私にほほ笑み返してほしかったであろう人々とつながり合えなかったことが慰められた。

見知らぬ人の傷つくひと言

ほほ笑むことができないのは、表面的なイメージだけの話ではない。エネルギーを消耗するのだ。たとえば、私は食べ物をひと口飲み込むたびに、唇に指をそっと添えて閉じなければならない。飲み込んだら、口についたものを払い落とす振りをして、手を下げる。誰にも気づかれないようにしながら。

眠りにつくのも楽ではない。自然にまぶたを完全に閉じることができないので、人差し指と親指を使ってまぶたが閉じた状態になるようにくっつけるか、目の上に木綿のタンクトップをかぶせてまぶたを閉じさせることもある。これがときどききつい。涙を流すときもあって、そうするとまぶたが閉じやすくなるのだ。

自分の障害とはうまく付き合うようにしている。場をやり過ごすためだ。私が決して自分で完璧に補うことができない動作が、ほほ笑むことだ。私の体は顔には表れないほほ笑みを感じている。新しい友達になぜ私が笑わない、いや、笑えないのかを説明すると「それはすごくつらいだろうね」と言われる。でも私は「そうでもないよ。慣れたから」とうそをつく。

それでも、顔には表れない笑みを感じるときがある。友達とジョークを言い合って笑い声をあげているときや、道ですれちがう子どもに笑いかけられたときなどだ。瞬間的な喜びが私の体全体を通して表れる。体の内側と外側でわずかに感じるような感覚だ。それが表に現れているのだろうかと長いこと考えていたのだが、親友が、私の笑みが表面に出ていると教えてくれた。私の笑みが見えると。

でも最近こんなことがあった。バス停に立っていると通りがかった高齢の男性が私をじろじろ眺め、視線が合うとこう言った。「かわいい女の子はほほ笑むものだよ」。

私は言葉を失った。その人が話を続けないよう願いながら、首を横に振り、ぎこちない笑い声をあげた。そして彼が立ち去ると、高校のときの写真撮影でカメラマンが陽気な声で「笑って!」と言ったのを思い出した。「笑って!」と誰かが言うと、恥ずかしさで身を縮め、自分ができないことをしようとし、気まずい時間が過ぎ去るのを待つ鏡の中の5歳の私や16歳の私に戻るのだ。

(執筆:Effy Redman、翻訳:前田雅子)

(C) The New York Times News Services

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