高校球児のタバコ、「連帯責任」は時代錯誤か かつては「野球部以外」の不祥事で出場辞退も
今でも語り継がれる最も厳しい“お仕置き”は、1971年の「涙のUターン事件」だろう。センバツ大会出場を勝ち取った北海高校の選手たちは、甲子園球場に向かうべく青函連絡船の上にいた。そんななか、卒業式を終えたばかりの同校元サッカー部員の卒業生が下級生5人から集団暴行を受け、大ケガをするという事件が勃発する。
これが夕刊で大きく報道されたことから、同校は急遽野球部の甲子園出場辞退を北海道高野連に通知し、船上の野球部員たちはそのまま船を下りることなく函館港に引き返したというものだ。これ対しては、当時の北海道高野連会長も「不祥事を起こしたのだし、この際、大会出場は遠慮してほしいと考えている」とコメントし、学校の判断を妥当とみなしている。
要するに、かつては学校内で何らかの不祥事が起これば、野球部員も巻き添えを食って試合に出られなくなったのである。その理由として考えられるのは、こんな暴力事件を起こす学校は、特別に選ばれたものたちだけが出場できるセンバツ大会にふさわしくないということなのだろう。
佐賀のぼや騒ぎによる出場辞退も本質的には同じ論理をあてはめただけなのだが、ここで注目すべきは何をもって“ふさわしくない”とするのか、その基準が時代とともに徐々に変化してきたという点なのである。
Uターン事件が起きた1971年当時の日本高野連会長は、“高校野球の父”とも称される佐伯達夫氏が務めていた。佐伯氏がこのような厳しい姿勢をとった理由は、戦前、戦中、戦後と野球とともに過ごしてきた経験によるところが大きい。
同氏は、戦時中に野球が国家統制の対象となったことに対して忸怩たる思いを抱いていた。そして、高校野球を教育の一環と位置づけて厳格なルールの下で運営しなければ、かつてのように国家からの干渉を受け、自治権が剥奪されると考えた。そうした確固とした信念が、断固たる処分の背景にあったものと考えられる。
国民の求める“高校生らしさ”に沿った判断
先の戦争から70年が経過し、さすがに今の世の中は野球を“敵性スポーツ”とみなし、国家統制下に置こうなどという状況にはない。しかし、高校野球が依然として教育の一環であり、“高校生らしさ”をウリにして国民の支持を集めていることは紛れもない事実である。
それゆえに、あいまいな“高校生らしさ”の基準をどこに設けるべきかという微妙な判断が要求されるのだ。つまり、国民にそっぽを向かれないようにするための対策としての処分である。
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