主役より光る!真田昌幸「弱くても勝つ方法」 大河ドラマ「真田丸」に学ぶ生き残りの戦略

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昌幸は徳川家康に臣従したが、家康は北条との和平条件で、真田が自力で奪った沼田領を、北条氏に渡せとしたことで、家康から離反した。

天正13年(1585)7月に、昌幸は越後の上杉景勝の支援を得て、2000の兵力で上田城に籠もり、徳川軍7000を迎え撃ち大勝した。この上田合戦で昌幸は秀吉から信濃の独立大名として認知された。その後も家康は、真田征伐に兵を甲府に進めたが、秀吉の調停により真田氏は徳川氏の与力大名とされた。だが家康は小領主で策を弄する昌幸を警戒し、昌幸は畿内で輝くように活動する秀吉に魅了されていた。

天正17年(1589)に、北条方が真田領の名胡桃(なぐるみ)城を攻略したことで、秀吉は私闘を禁じた惣無事令(そうぶじれい)への違反とし、小田原の北条氏を征伐した。秀吉は家康を北条氏の旧領である関八州に移すと、徳川領の周囲に豊臣系大名を配して家康を牽制するが、昌幸もその一端を担った。

昌幸は沼田領を嫡子の信幸に与え、信幸は家康の重臣本多忠勝の娘を正室としたため家康配下の大名となり、次男の信繁は昌幸の後継者としての地位を固めていった。

三成挙兵を真田家興隆のチャンスとした昌幸

慶長5年(1600)、家康が上杉景勝討伐に関東へ下ると、昌幸もこれに応じた。石田三成が家康の留守を狙って上方で挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送り、昌幸は下野国犬伏(現・栃木県佐野市)で、この書状を受け取った。

昌幸は三成の使者に「かほどの大事を、前もって相談せぬことがあるものか」とした怒りの返書を渡し、信幸と信繁を呼んで評議を開いた。長男の信幸は本多忠勝との縁から家康に与したが、次男の信繁は人質として秀吉の許に送られて、秀吉の傍近くに仕え、秀吉の声がかりで大谷吉継の娘を妻にしていた。ところが昌幸は二人の息子の立場とは違った発想をしていた。

昌幸は智謀の将とされ「真田は表裏比興(卑怯)の者」と評されていた。家康が上方を留守にすれば、三成が挙兵するのを昌幸は予測できたが、前もって知らせられなかったとして怒ってみせた。そして、三成と書面で交渉して謝罪させ、勝利すれば信濃と甲斐を与えるという条件を引き出したのである。

昌幸と信繁は上田に帰り、真田父子が訣別したことは家の存続のための両面作戦とされたり、上田合戦で上杉景勝の支援を受けた返礼ともされるが、昌幸は家を興隆させるために、所領の拡張を望んでいたと思われる。

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