保苅が提起したのは、この時、彼らの語る「歴史」を「それは真の歴史ではない」として、却下する権利が私たちにあるのか、という問いだ。
たとえば「マイノリティからみた歴史が必要だ」「被害者の視点で歴史に向きあえ」と主張する人々は、このアボリジニたちの「われわれはケネディに会い、励まされて運動を始めた」という歴史と、どのようにつきあうのだろうか。
ケネディが来てくれた、でいいのかもしれない?
こういう問いを持ちだすと、必ず歴史(特に近代史)界隈に湧いてくるのが、「歴史は『物語』ではない。『史実』を軽視する歴史は、南京大虐殺が起こらなかったと主張するような、悪しき『修正主義』と同じだ」という人々である。
実際に保苅も悩まされたようで、同書も架空の「実証主義歴史学者」や「市民運動派社会学者」がその種の発言をして、保苅の逡巡を批判する構図をとっている。
たしかにそういう立場の人なら、史実に基づく「リアル歴史」なるものの意義に、悩むこともないだろう。開港後の日本史よりもガンダム世界の歴史の方が面白いです、などという不真面目な輩には横っ面を張って、「日本の近代史をめぐって、中国や朝鮮の人たちとのあいだに、今どれだけ大きな『歴史問題』があるかを知らないのか!」とお説教だけしていればいいのだから、楽である。
しかし、東アジアのどの国でも遅かれ早かれ、「戦争体験者が一人もいない時代」は来る。自分自身の体験ではないという意味では、「リアル歴史」といっても誰もが、公教育のテキストであれ、市場で消費される小説やドラマであれ、なんらかの「物語」を媒介としてのみ追体験し、語り継いでいるにすぎないという世界は、遠からず出現するのだ。
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