「性的倒錯」、深すぎて繊細すぎる本当のこと だれもが「愛の逸脱」を秘めている
そもそもなぜ多くの人は、逸脱した性行動を扱うときに、自らの心的能力を適切に行使するのが難しいのか? その理由のひとつに「嫌悪の要因」が挙げられる。このメカニズムを追いかけていくと、われわれは体内の分泌液を伴う接触において嫌悪感を感じるという状態こそがデフォルトであり、性的な興奮状態に陥ると嫌悪感は麻痺し、結果としてさまざまな営みが可能になっているという事実が露わになる。この嫌悪感こそが憎悪の直観的エンジンとなり、私たちの社会的知能を弱め、人間性そのものを危うくしているのだ。
もうひとつわれわれが頭に入れておきたいのは、「性的欲望」自体は本来的に無害であり、行動に移されてはじめて害が生じるということだ。行動がその人が考えていることによって強く動機づけられているという「転ばぬ先の杖」バイアスは、道徳的に合理的ではあるものの、論理的ではない。
平均的倒錯者と共通するものを保持している
本書を読んでいく中で気づかされるのは、われわれは自分が思っている以上に平均的倒錯者と共通するものを保持しているということだ。にもかかわらず、私たちが特定の性的指向を持つ人を「性的倒錯者」と見なすのならば、彼らから見ても私たちは等距離の「性的倒錯者」と言えるだろう。また特定のセクシュアリティをステレオタイプに危険なものと捉えるのなら、同じようにわれわれはステレオタイプに残酷であると見なされても不思議ではない。
著者は「倒錯」という心の理論に基づく概念を、道徳を説く人の心が生み出した幻影にすぎないとして、さまざまな角度から打ち砕いていく。性的逸脱は、その感情的な重みを取り去ってしまえば、統計学的概念にすぎなくなる。
人のセクシュアリティについて普遍的なものなど、ごくわずかしかなく、むしろ全員が「倒錯」してことを指摘するのは、道徳ではなく、科学だ。そして「性倒錯」というものを通じて見えてくるマイノリティと社会のあり方は、さまざまな領域にも通じるところがあるだろう。
「性愛」というキワドいテーマをインサイダーの視点と、科学的な知見を織り交ぜながら記述されている本書は、「世の中」という獏とした存在へ向かって論戦を仕掛けていくような情熱と、社会はこうなっていくべきだという冷静さが見事なまでに共存している。その完成度の高さに、圧倒されるばかりだ。
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