『隅田川の向う側』を書いた半藤一利氏(歴史探偵・戦史研究家)に聞く
「歴史探偵」を自認する著者が、自らの体験した「東京下町・越後長岡の昭和」を爽やかに描いた最新作が好評だ。ただし、この本は私家版「豆本年賀状」として25年近く前に書いた4年分を再録したものという。
--「豆本年賀状」は1980~95年に15冊続けたわけですね。
よく15冊もやったなと思う。この間、16年で1冊抜けたのは、家内の母親、松岡筆子(夏目漱石の長女)が89(平成元)年の7月になくなって、翌90年は喪中で空いたため。その後は、文庫サイズでなく家内も参加した新書サイズにした。今にして思えば物好きだったね。
--デビュー作ともいえる『日本のいちばん長い日』は、当初は大宅壮一編とされた作品でしたね。
30代前半から太平洋戦争関係のものを何冊か書いた。編集長になったときに、本職に専念のため書くことをパッとやめた。編集長は『漫画読本』を含めて12~13年やったかな。ただ、原稿を書かないと決めたけれども、書かなくなるとどうしても腕が落ちる。稽古のつもりというと変だが、練習のつもりで豆本年賀状を書いてみた。
当方は新暦の正月休みに書いて旧暦の元日に届くように出す。旧暦の元日は年によって違う。1月の末に来る場合も2月の初めもある。1月の終わりだと、入稿から印刷まで期間が短くやたらに忙しい。最初のころは差出先が300ぐらいだった。人気が出てきたというのもおかしいが、年賀状を出すと旧暦正月に豆本で返してくれると知ったためか、やたらに増えてきた。最後のころは750ぐらい豆本年賀状を送った。
--この本はその15冊のうち、82年から85年の3冊目から6冊目をまとめたのですね。
『文藝春秋』編集長のとき、中国旅行で敦煌に行った。まだ飛行機では行けない時代で日本人で訪れた人もほとんどいない。ゴビ砂漠を上海号という車で走った。その中国紀行を絵入りで30話ほどにして、豆本年賀状として送ったら評判がいい。それが豆本年賀状の最初だ。で、もう1冊と、翌年も中国をテーマにして書くことになった。
その後の3、4、5、6がこの本にある話で、続く7は文士劇を中心にして芝居の話。8は大相撲、9が漱石先生、10は木版画を私自身がやるので、その話だった。送った先に社内の人はいなかった。もっぱら社外の人で、雑誌の執筆陣にも出していなかったと思う。