1970年の大阪万博、オイルショック…激動した昭和ニッポンの最前線で汗を流した「スーパーゼネコン」の軌跡
「手持ち工事量は一〇〇〇億円をはるかに越えるほど多い」(清水建設1961年)
まず、大成建設の記事にある「超繁忙状態」という言葉が、現場の熱気を端的に表している。「手持ち工事が消化能力の1年分ある」というのは、作っても追いつかない状態だったと想像できる。
同様に、「手持ち工事量は一〇〇〇億円をはるかに越えるほど多い」という清水建設の記述からも、建設ラッシュによって仕事が潤沢にあったことが読み取れる。一方で急激な成長は、「人手不足」というひずみも生んでいた。大林組の記事には以下のように記載されている。
「建築、土木部門とも活況で、ことに建築部門がブーム状態。労務費、資材の値上がりがあるが、業績は相変わらず向上歩調だ」(大林組1961年秋号)
今にも通じるが、建設のブーム状態の裏では労務費、資材の値上がりが課題となっていた。それでも経済の拡大が続く状況にあって、業績は好調だった。
1960年代後半:1回目の大阪万博で特需に沸く
1968年に、日本が世界第2位の経済大国となった。今度は、アジア初の万博を大阪で開催するため、特需が建設業界に発生した。関西を地盤とする大林組の記事には、特需について記されている。
「今三月期は万国博関連工事約七〇億円もあり、完工高一二〇〇億円、純益三三億円程度の見込みだ」(大林組1969年秋号)
パビリオン建設や会場整備などの特需が、ゼネコンの収益を大きく押し上げたことが読み取れる。今年の大阪万博も、開催期間の後半にかけて来場者が増加し、ミャクミャクブームが話題になったが、この比ではないほど日本中で活況ぶりを感じていただろう。



















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