大河「べらぼう」同志だけど相対し…松平定信がロシアからの蝦夷地防備策で本多忠籌と意見を異にしたワケ

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そうこうしているうちに、蝦夷地の担当が、本多から定信に替わります(寛政4年=1792)。定信は蝦夷地防備策を早速打ち出しました。それは「蝦夷地は松前藩に任せ、厳重に防備するよう命じる」「青森か三馬屋に幕府の北国郡代を置き、北辺の防備を担当させる」というものでした。松前藩が幕府の前述の命令をしっかりと実行しているか3年から5年に1度確認することも提起されています。

幕府の役人を派遣して監視するのです。幕府役人派遣は、先に本多が提案した御救交易と同時に行い、派遣のための費用を捻出。派遣の際に乗る船は「唐蛮制の船」(西洋式の軍用船)とし、それを北国郡代に配置する(その他には、伊豆・相模・上総・下総の沿岸に配置)プランも立てています。

定信はこうしたプランを立ててはいたのですが、自身の老中辞職により頓挫します。定信のプランは辞職後早々に否決。幕府は蝦夷地を直轄にする方向に舵を切っていくのです。1807年、幕府は全蝦夷地を直轄とします。幕府は蝦夷地開発策も打ち出しますが、こちらはあまり進展しませんでした。

定信が考えた「蝦夷地開発論」

定信は頑迷な蝦夷地非開発論者ではありませんでした。後々、松前藩が防備負担に耐えきれず、蝦夷地支配を投げ出してしまう可能性も考えていました。その際は、東北の諸大名に蝦夷地を分割して預け、開発させるという「蝦夷地開発論」も主張しているのです。

現状においては積極的な開発は望まないが、近い将来、蝦夷地開発に乗り出すことになるというのが定信の見通しでした。蝦夷地を未開のままにしておいては、いざ有事という時に行動が取りにくいというのも定信が考えていたことでした。

(主要参考文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro

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