大河「べらぼう」同志だけど相対し…松平定信がロシアからの蝦夷地防備策で本多忠籌と意見を異にしたワケ
定信が老中首座に就任して2年後の寛政元年(1789)、アイヌ人が蜂起し、商人・飛騨屋久兵衛の手代など約60人を殺害するという事件が起こっていました。
和人(日本人)が蝦夷地に進出し、アイヌの人々を搾取していたことが、蜂起の一因だと言われています。当然、幕府としても対応を考えなければなりません。蝦夷地対策は、幕府老中で陸奥国泉藩の本多忠籌が当初、担当します。
見解を異にした松平定信と本多忠籌
本多は、蝦夷地松前地方を領有する松前藩から松前を取り上げて、幕府直轄とし、蝦夷地を開拓、役人を派遣して、アイヌの人々を「教化」すべきという考えでした。そしてそれは決して本多だけの意見ではなく、勘定奉行なども同意見だったのです。
さて、アイヌ人蜂起事件を受けて、本多は「御救交易」を提起します。幕府の役人が船に商品(米・煙草など)を積み込んで、蝦夷地に行き、アイヌ人と公正な交易をする。松前の交易不正をただし、アイヌの人々に「御仁恵」を与えるというのが「御救交易」の本義でした。
しかし定信は本多の「御救交易」には疑いを抱いていました。御救交易が蝦夷地直轄開発論につながっていくことを懸念していたのです。
とは言え、定信も蝦夷地に対し、何もしなくて良いとは思っていません。「蝦夷地は、満州やロシアなどとも境を接しており、大切なところであるのに、今までその備えなきことは不審だ」(『宇下人言』)と蝦夷地防備策の必要性を述べています。
本多もその点に関しては定信と同意見だったようですが、前述したように御救交易などに関しては見解を異にしていました。その事について定信は「同意なりしが、その為すところの趣法は違いぬ」と書いています。本多は蝦夷地のことについて「心を尽くし」てきましたが、定信曰く蝦夷地「防備策についてはこれといった建議はなかった」ようです。



















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