台湾の先住民族を描いた映画「潜行一千里 ILHA FORMOSA」から考えたい、世界の複雑さに対して謙虚になること
そして間違った呼称を押し付けながら、さらに「原住民」を「げんじゅうみん」と日本語読みで大支に呼びかけている。「げんじゅうみん」は日本語読みだから、通じるわけがないが、大支も困って「原住民の話をしたいらしい」と推察した挙句、一所懸命「Aborigines(アボリジニー)」という言葉を用いて台湾の歴史を伝えようとしている(だが実は”Aborigines”という言葉にも議論があり、徐々に置き換わって現在は原住民族の英訳は“Indigenous peoples” が標準である)。大支自身が、制作者の認識不足に不安を覚え、それを補足しようと話をしているように見えてしまう。
さらに「原住民」をどう見ているのかという問題を掘り下げたい。この作品の中には、日本語を話す原住民の方も多く出てくる。台湾が植民地にされたことについても触れられているし、『セデック・バレ』をもとにした霧社事件の話も出てくる。それ以外にもたくさん日本についての言及が出てくるが、なぜか制作者は日本人である自分をまったく蚊帳の外に置いているように見える。
霧社事件のとき、日本はセデック族を味方と敵(蜂起側)に分けて双方を争わせた。蜂起側はジェノサイドに遭い、蜂起側の土地は日本の味方をした集落の人々に分け与えられた。戦後に国民党統治下において、蜂起側のモナ・ルダオたちは英雄に祭り上げられ、味方をした人々は裏切りもの扱いされた。
映画『セデック・バレ』はそうした二項対立、同じセデックの人々を2つに分けた圧倒的な「物語」をもとに紡がれた映画である。日本の植民地下に起こった事件が生み出した深い分裂は、『セデック・バレ』を通して改めて現代の地域の傷のかさぶたを剥がした。そうした経緯を知れば、本作に出てくるセデック族のDJラブ(日本の味方側の集落の出身)が、『セデック・バレ』を観た時の痛みを想像できるのではないだろうか。
日本のAVが海外に影響を与えている
その痛みは恐らく、自分のルーツへの「恥」の記憶となり、そうした記憶が作中で当人が発した「親日だよ、日本のAVも好きだしね」という投げやりな言葉につながっているのかもしれない。ちなみに、「日本のAV」は台湾における日本女性へのステレオタイプを作り上げ、私のような台湾に生きる日本女性は不快な思いをしている。
日本の男性は、海外において「日本」が作り上げている「日本女性」の表象に鈍感なあげく、日本の女性を踏みつけていることにも気付いていないのだと本作を観ながら思った。これについて詳しくは拙著『日台万華鏡』の「日本人女優を起用した台湾のコンドーム広告に違和感を抱いた理由」を参照してほしい。
本作がもっとも「踏みつけている」のはもちろん、メインとして出てくる原住民族の女性たちだ。「ビンロー」を噛み「歌が大好き」で「シャーマニズム」を信じ「伝統」を守って暮らす「原住民」の「あけすけ」な「美しい女性」たちとして作中で描かれる。
確かに、原住民の年配の方にあけすけでオープンな女性は少なくないし、それが魅力となって、私も原住民集落を訪れたときは必ずお酒を携えて一緒にカラオケをしたり踊ったり、たわいのない会話で「がっはっは」と過ごすのが好きだ。しかし本作では、下ネタのようなところばかりクローズアップされている。



















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