国鉄時代の「新幹線運転士」今だから明かす苦労話 雪や台風の走行、0系の「団子鼻の中」に入って便乗
台風のときも怖かった。近江平野は盛り土の上を走る区間が多く、強風の影響をモロに受けます。ある台風のときに、停止を指示されたのがそういう場所で、車止めを付けても吹き飛ばされてしまうくらいの強風が吹き荒れていました。そこで、運転指令に連絡して、両側が壁になっている切り通し区間へ避難する許可を取って移動したこともありました。
また、76年9月の長良川が決壊したときは周囲が海のようになって、家の屋根の上に避難して救助を待つ人がいるのが、運転台から見えましたね。
運転士2人乗務だった「ひかり」
――話は変わりますが、当時の勤務形態は、どんな感じだったのですか。
われわれ東京運転所所属の運転士は東京―新大阪間が乗務区間になります。乗務行路はいろいろなパターンがあるのですが、たとえば運転士仲間の間で”ひかりひかり”と呼ばれていたのが、午後のひかり号を運転して新大阪まで行って1泊し、翌日の午前中のひかり号を運転して東京に戻ってくるというもの。ほかにひかり号で東京―新大阪を日帰りする”トンボ仕業(トンボ帰り)”というのもありました。
こだま号の場合は、下りは東京から出発して名古屋で2時間程度の段落ち休憩を取り、新大阪まで運転する。上りは新大阪から出発して静岡で段落ち休憩を取り、東京まで運転するという仕業です。行きも帰りもこだま号というパターンはありませんでした。
ちなみにひかり号の場合、当時は運転士2名が乗務して、途中で交代しながら運転していました。具体的には例えば僕とAさんが運転士だとして、まずは僕が東京から最初の交代地点の三島までを担当する。次にAさんが三島から豊橋までを担当。その次は僕が豊橋から米原、最後はAさんが米原から新大阪を担当するという具合です。
――ずいぶん細かく交代する印象ですが、やはり国鉄としても初の時速200km運転ということで、リスク管理の意味合いがあったのでしょうか。
当初の計画では1人乗務の予定だったようですが、当時は組合が強かったから、反対が起きて2人乗務になったみたいです。僕はトイレが近いから、交代できて助かりました。今の新幹線は1人乗務だから、乗務前の飲食はかなり気をつけているようですね。僕らの時代も、こだま号は運転士1人で添乗検査係(故障発生時の修理係)とのペアでした。


















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