なぜ銅鐸は「三種の神器」に加えられなかったのか…【邪馬台国=畿内】説から見えてくる"皮肉な事情"
卑弥呼政権の王都があった邪馬台国がどこにあったか、現在でも畿内説と九州説を主として論争が続いているが、ここでは畿内説を取ることにする。
3世紀初頭に突如として出現した纏向(まきむく)遺跡は、面積約300万平方メートルに及ぶ巨大集落であり、遺跡全体に水路が巡らされた計画都市だった。さらに発見された建造物は南北約19.2メートル、東西約12.4メートルに及び、付随する建築物の軸線をそろえた最先端かつ最大級の建築物群である。
これほどの規模の王都を持つのは、日本列島で卑弥呼政権以外にあり得ないためだ。
畿内説のウィークポイントは、北部九州の先進性に対して、畿内の後進性が挙げられる。畿内勢力は銅鐸文化圏を形成した一大勢力ではあるが、北部九州や吉備、出雲などに対して、強力な首長は誕生せず、鉄器や銅鏡などの出土数が少ない。
しかし、卑弥呼政権はアマテラス系統の北部九州とタカミムスヒ系統の吉備を中心とする勢力との連合政権であり、畿内は必ずしも中心地ではない。二重統治体制を取るにあたって、北部九州と吉備は互いの本拠地を王都にするのではなく、まだ未開拓の畿内が新たに選ばれたと考えられる。
また、タウポ火山の噴火に端を発する食糧危機と人口減少に対して、四方を山に囲まれ風水害が少なく、かつ大陸の動乱の影響を受けにくい場所だったという点も指摘される。
北部九州・吉備の祭祀文化の継承と銅鐸祭祀の廃止
卑弥呼政権が畿内勢力によって誕生したのではないことは、三種の神器とその後のヤマト王権の象徴となる前方後円墳の採用からも読み取れる。
弥生時代の祭祀文化は、大まかに畿内を中心に四国東部から東海に広がる銅鐸祭祀、北部九州を中心にして四国西部に広がる銅矛・銅剣祭祀、吉備がある瀬戸内海東部の円形周溝墓、出雲を中心とする日本海沿岸部の四隅突出型墓がある。
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