"無敵の人"になりつつある石破首相、身内のはずの自民党が警戒する「死なばもろとも解散」の現実味
「両院議員総会の流れとしては、森山幹事長のあいさつで終わりになるはずだったが、石破首相はどうしても森山幹事長を慰留したかったのだろう。しかし、その内容はグダグダと意味不明で、タイミング的にも石破首相が発言すべきだとは思えなかった」(同)
このときから一気に「石破降ろし」は加速する。すでに辞意を漏らしていた森山氏は石破首相に進退伺を出し、ほかの党3役も辞意を表明していたが、9月4日には小渕優子組織運動本部長も石破首相に辞意を伝えている。
また同日午後には国会内で、遠藤利明元総務会長や山口俊一元沖縄・北方担当相、石田真敏元総務相、新藤義孝元総務相といったベテラン議員が会合を開催。「(総裁選を求める9月8日の署名提出期限の前に)石破首相がけじめをつけるべきだ」など意見を交換した。

注目すべきは、この会合に渡海紀三朗前政調会長や田村憲久元厚生労働相も参加していたことだ。渡海氏は石破首相と1986年の同期当選で、ともに「ユートピア政治研究会」を結成して政治改革を語り合った同志であり、田村氏は石破首相が率いた水月会の元メンバーで、石破首相の側近と見なされていたからだ。
石破首相に「解散」を吹き込んだのは誰か
石破首相としては「禊(みそぎ)を受けるべきは自民党で、自分ではない」ということだろうが、現在国会は閉会中。そして、これまで閉会中に衆議院が解散された前例はない。
しかし、衆院議員が参集した衆院本会議場でしか衆議院を解散できないわけではない。1986年6月の「死んだふり解散」では、衆院議長応接室で解散詔書が読み上げられている。
当時の中曽根康弘首相は1983年の「田中判決選挙」で失った36議席を挽回するため、与党に有利とされる衆参同日選をもくろんだ。ただ、1983年の衆院選については、最高裁が1985年7月に「憲法上要求される合理的期間内の是正が行われなかった」として違憲判決を出したため、野党が定数是正を行わずに衆院選を行うことに強く反対していた。
しかし、1986年5月の東京サミットを成功裡に終えた自信と、秋の総裁選で「安竹宮」(安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一の3氏)が台頭しつつあった懸念から、中曽根首相はどうしても近日中の衆参同日選にこだわった。
そこで、投開票日を当初の6月22日から定数是正の周知期間満了後の7月6日に変更し、それを秘匿したまま6月2日に臨時国会を召集。同日に議長応接室で衆議院が解散され、自民党は50議席増の300議席(追加公認で304議席)を獲得した。「死んだふり解散」と揶揄されるのはこのためだ。
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